観音崎散歩…7
(『観音崎散歩…6』のつづき)

●トンネルのすぐ横には、ゆるい下り坂に沿って並んだ砲台群がありました。先の第一砲台より草木の浸食がひどく、今にも埋もれてしまいそうに見えます。
説明版によれば、ここは北門第二砲台と呼ばれ、第一と同じく明治17年竣工、元は24センチ加農砲6門を備えていたとのこと。うち現存しているのは3砲座で、「日本の要塞」の記事には、大正14年に付属施設をのぞき、除籍廃止されたとありました。
●砲台の一つに上ってみました。積もった落ち葉を踏みながら分け入ると、真ん中やや壁寄りに、右写真のようなコンクリートの台座らしきものが。
風化が進んで、骨材がすっかり洗い出されたようになり、崩壊寸前といった感じですが、天端が平滑に加工されていることから、照準装置が何かの基部のように思えました。まあ、砲のあるべき真ん中に、台があるのも少し変ではあるので、砲台廃止後に造られたのかもしれません。

●砲台群を右手に見て坂を下ると、東京湾海上交通センターの敷地内に。海上や水辺からのおなじみの姿は、塔屋の上半分なので、本体(?)はこんなカタチだったのかと妙に感動。
特に塔の基部が格好いいですね。ちなみにこの敷地も、かつては砲台の一部だったそうです。

●海上交通センターの横から、つづら折れの散策道を足取り軽く下ると、最初に見た浜辺のあたりに出ました。探検気分を満喫した後は、やはり水道をゆくフネブネ鑑賞。
ちょうど、黒い船体の巨船が南下してきたので一枚。船名は「GASLOG SHANGHAI」。航路脇に点々と散らばる漁船が、まるで豆粒のように見えるくらい、乾舷の高い大きな船でした。
●沖ゆくフネブネを愛でながらのんびり歩いていたら、バーベキューのおこぼれをねだりにきたのか、近寄っても逃げないスズメ君がいたので、一枚パチリ。
緑濃い山肌が磯に迫っているせいか、野鳥の姿も多く見られ、トリ好きとしても楽しいところ。浜はバーベキュー場として開放されているので、鳥たちにとっても格好の餌場になっているのでしょうね。
(27年1月18日撮影)
(この項おわり)

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●トンネルのすぐ横には、ゆるい下り坂に沿って並んだ砲台群がありました。先の第一砲台より草木の浸食がひどく、今にも埋もれてしまいそうに見えます。
説明版によれば、ここは北門第二砲台と呼ばれ、第一と同じく明治17年竣工、元は24センチ加農砲6門を備えていたとのこと。うち現存しているのは3砲座で、「日本の要塞」の記事には、大正14年に付属施設をのぞき、除籍廃止されたとありました。

風化が進んで、骨材がすっかり洗い出されたようになり、崩壊寸前といった感じですが、天端が平滑に加工されていることから、照準装置が何かの基部のように思えました。まあ、砲のあるべき真ん中に、台があるのも少し変ではあるので、砲台廃止後に造られたのかもしれません。

●砲台群を右手に見て坂を下ると、東京湾海上交通センターの敷地内に。海上や水辺からのおなじみの姿は、塔屋の上半分なので、本体(?)はこんなカタチだったのかと妙に感動。
特に塔の基部が格好いいですね。ちなみにこの敷地も、かつては砲台の一部だったそうです。

●海上交通センターの横から、つづら折れの散策道を足取り軽く下ると、最初に見た浜辺のあたりに出ました。探検気分を満喫した後は、やはり水道をゆくフネブネ鑑賞。
ちょうど、黒い船体の巨船が南下してきたので一枚。船名は「GASLOG SHANGHAI」。航路脇に点々と散らばる漁船が、まるで豆粒のように見えるくらい、乾舷の高い大きな船でした。

緑濃い山肌が磯に迫っているせいか、野鳥の姿も多く見られ、トリ好きとしても楽しいところ。浜はバーベキュー場として開放されているので、鳥たちにとっても格好の餌場になっているのでしょうね。
(27年1月18日撮影)
(この項おわり)

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タグ : 観音崎観音崎砲台東京湾海上交通センター
観音崎散歩…6
(『観音崎散歩…5』のつづき)
●灯台敷地内の屋外展示品や、資料展示室を拝見してから、別ルートでお散歩しつつ山を降りようと外へ。しばし水辺とはお別れです。

●門を出て左手を見ると、うおっ、ものすごく狭い切り通しだ! 幅は1.5mくらいでしょうか、人のすれ違いも難しそうで、しかも道はカーブした急な下りときた! いきなり探検気分を盛り上げてくれますね。
地層のしましま模様と、岩肌のざらついた感触を楽しみながら通ると、切り通し区間はすぐ終わり、灯台の裏手へ出ました。稜線を切り通しで越えたわけですね。この後、道は等高線に沿ったような、山肌をうねる散策路となります。

●うっそうとした山中を、案内板を頼りにたどっていくと、小さな盆地のような広場に出ました。ぐるりの高いところは生い茂る木々で囲まれて、小さな別天地のおもむき。緑の中に、石材やレンガで組まれた構造物が‥‥砲台跡だ!
説明板によると、北門第一砲台跡、明治17年竣工とありました。二つの砲台の平場を、写真中央に見えるレンガのトンネルで連結した構造です。
●砲台の一つに上がって、レンガのトンネルをアップで。石材やレンガが多用され、コンクリートの使用が控えめになっているあたり、明治の構造物の雰囲気充分で、よいものです。
「歴史群像シリーズ・日本の要塞」(学習研究社)によると、ここは「観音崎第一砲台」とされ、23口径24センチ加農砲2門が備えられており、大正2年に除籍廃止されたとのこと。盆のように掘り下げた地形から、榴弾砲でもあったのかしらと思っていたら、かつては上写真の向こう側が海に向かって開いており、加農砲の射界が確保されていたのでした。
●第一砲台との出会いに勢いを得て、さらに山道をずんずん進んだところ、どこで間違えたのか、反対側のふもとに出てしまったりして、ふたたび汗だくの疲労困憊。
休憩しながらさらに登ると、ふと右写真のトンネルの横に出ました。地山の岩で強度があるのか、ポータルのアーチが一部欠けているのも珍しく、加えてこの、吸い込まれそうな急勾配!
かつてはここを、砲身や砲架のような重量物が、コロと神楽算で引き上げられたのかなあ‥‥と、妄想させるに十分なこの造り。ぜひ通ってみたいと足を踏み出しかけたら、左手、トンネル内は落盤の危険が云々、の注意書きが目に入りました。残念!
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…7』につづく)

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●灯台敷地内の屋外展示品や、資料展示室を拝見してから、別ルートでお散歩しつつ山を降りようと外へ。しばし水辺とはお別れです。


地層のしましま模様と、岩肌のざらついた感触を楽しみながら通ると、切り通し区間はすぐ終わり、灯台の裏手へ出ました。稜線を切り通しで越えたわけですね。この後、道は等高線に沿ったような、山肌をうねる散策路となります。

●うっそうとした山中を、案内板を頼りにたどっていくと、小さな盆地のような広場に出ました。ぐるりの高いところは生い茂る木々で囲まれて、小さな別天地のおもむき。緑の中に、石材やレンガで組まれた構造物が‥‥砲台跡だ!
説明板によると、北門第一砲台跡、明治17年竣工とありました。二つの砲台の平場を、写真中央に見えるレンガのトンネルで連結した構造です。

「歴史群像シリーズ・日本の要塞」(学習研究社)によると、ここは「観音崎第一砲台」とされ、23口径24センチ加農砲2門が備えられており、大正2年に除籍廃止されたとのこと。盆のように掘り下げた地形から、榴弾砲でもあったのかしらと思っていたら、かつては上写真の向こう側が海に向かって開いており、加農砲の射界が確保されていたのでした。

休憩しながらさらに登ると、ふと右写真のトンネルの横に出ました。地山の岩で強度があるのか、ポータルのアーチが一部欠けているのも珍しく、加えてこの、吸い込まれそうな急勾配!
かつてはここを、砲身や砲架のような重量物が、コロと神楽算で引き上げられたのかなあ‥‥と、妄想させるに十分なこの造り。ぜひ通ってみたいと足を踏み出しかけたら、左手、トンネル内は落盤の危険が云々、の注意書きが目に入りました。残念!
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…7』につづく)

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観音崎散歩…5
(『観音崎散歩…4』のつづき)

●目線をぐっと右‥‥東の方へ転じれば、人工のものが目立つ平らかな湾奥から、房総の山並みがうねる湾央風景に。繰り返しになりますが、この変化が味わえるのも観音崎ならではで、改めて面白く感じたものです。
眺めていて、今さらながら思ったのが、沿岸が平地か、あっても低い丘陵ばかりの湾奥は、地文航法での目標に乏しく、ちょっと視程が悪くなると、いかにも位置確認が難しそうであること。まして大きな建物がほとんどなかった昔、羅針と沿岸地形のみが頼りの船乗りからすれば、決して行き来のしやすい海ではなかったのではないでしょうか。

●妄想はさておき、さらに右へ目を向けて、ほぼ北、湾口方面を眺めたところ。はるかに霞む房総半島の南端と紺碧の海、足元の緑深く険しい崖線と、これまたため息の出るような眺望です。
写真中央あたり、岬の突端からぽつりと距離を置いた、小さな岩礁のような‥‥。いや、あれは明らかに人工のもの、以前、本で写真を見たことがあるぞ!

●ズームで思い切りたぐってみました。円筒形の基礎の上に、沖に向かってオフセットしたように乗っかった、小さなコンクリート製の建物。かつての水位観測施設ですね。砲台の関連施設とみて、間違いありません。現役時は、右手に桟橋があって、陸上とつながっていたのでしょう。
砲の射撃‥‥タマを的に当てるまでの段取りの九分九厘は、測量であるといってよいでしょうから、沿岸砲台であるここ観音崎のそれでは、潮位の計測が大切な仕事の一つであったことが感じられます。

●灯台の回廊をぐるりと一周し、北西側に見える東京湾海上交通センターの塔屋を一枚。こんなにまじまじと眺めるのは、浦賀水道を自艇で通って以来です。
海面から見上げたときの写真が、探せばどこかにあるはず。そのころとくらべて、変化があったのかみくらべてみたくなりました。
●同じく北西側、資料展示室を見下ろして。稜線上の岩を削り、擁壁を築いて得た敷地は本当に狭く、建屋をのぞくと、わずかな通路しか残らないことがわかります。
着いたときは、息も絶え絶えで気づきませんでしたが、左手にも道があるのですね。帰りはこちらを通って、探検しながら下山するとしましょう。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…6』につづく)

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●目線をぐっと右‥‥東の方へ転じれば、人工のものが目立つ平らかな湾奥から、房総の山並みがうねる湾央風景に。繰り返しになりますが、この変化が味わえるのも観音崎ならではで、改めて面白く感じたものです。
眺めていて、今さらながら思ったのが、沿岸が平地か、あっても低い丘陵ばかりの湾奥は、地文航法での目標に乏しく、ちょっと視程が悪くなると、いかにも位置確認が難しそうであること。まして大きな建物がほとんどなかった昔、羅針と沿岸地形のみが頼りの船乗りからすれば、決して行き来のしやすい海ではなかったのではないでしょうか。

●妄想はさておき、さらに右へ目を向けて、ほぼ北、湾口方面を眺めたところ。はるかに霞む房総半島の南端と紺碧の海、足元の緑深く険しい崖線と、これまたため息の出るような眺望です。
写真中央あたり、岬の突端からぽつりと距離を置いた、小さな岩礁のような‥‥。いや、あれは明らかに人工のもの、以前、本で写真を見たことがあるぞ!

●ズームで思い切りたぐってみました。円筒形の基礎の上に、沖に向かってオフセットしたように乗っかった、小さなコンクリート製の建物。かつての水位観測施設ですね。砲台の関連施設とみて、間違いありません。現役時は、右手に桟橋があって、陸上とつながっていたのでしょう。
砲の射撃‥‥タマを的に当てるまでの段取りの九分九厘は、測量であるといってよいでしょうから、沿岸砲台であるここ観音崎のそれでは、潮位の計測が大切な仕事の一つであったことが感じられます。

●灯台の回廊をぐるりと一周し、北西側に見える東京湾海上交通センターの塔屋を一枚。こんなにまじまじと眺めるのは、浦賀水道を自艇で通って以来です。
海面から見上げたときの写真が、探せばどこかにあるはず。そのころとくらべて、変化があったのかみくらべてみたくなりました。

着いたときは、息も絶え絶えで気づきませんでしたが、左手にも道があるのですね。帰りはこちらを通って、探検しながら下山するとしましょう。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…6』につづく)

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観音崎散歩…4
(『観音崎散歩…3』のつづき)
●ハァハァしながら頂上に到達。すき間から、防振架台に載せられた灯器を見上げて。屋根の裏に、亜鉛引きの鉄板らしい天井(?)がリベット止めされているのに目を引かれます。陽光の熱をやわらげる工夫でしょうか。
灯器の回転はいうまでもなく電動ですが、かつては壁掛け時計と同じ重錘式で、夜間の運転中は何度も、錘を下げたロープを人力で巻き上げなければならなかったとのこと。螺旋階段を上がるだけでも大変なのに、さらに巻上機を回すその労力たるや‥‥。先人のご苦労がしのばれました。

●さて、回廊からの眺望は‥‥まずは北~北西側から。おお、絶景!
沖合はるかに望む第一・第二海堡。白くけぶる水平線付近に、市街地や京浜工業地帯の活動ぶりが思われるパノラマです。

●第二海堡が気になって、ズームでたぐってみると‥‥。おや、周囲に新しい護岸が追加されていたのですね。
砲台としての役目はとうの昔に終わっているとはいえ、ここは海上災害防止センターの訓練施設がある、いわば「現役」の島。保全工事がなされるのもうなずけます。

●右手、第一海堡に目を転じると、第二海堡とは対照的に、崩壊したままの放置感あふれる(?)風情。台場のように草木が茂ってもよさそうなものですが、そうならないのは、何か理由があるのでしょうか。

●おおお、この角度は楽しいかも。富津の明治百年記念展望台の向こうに延びる東京湾アクアライン、そしてこちらへ船首を向ける船、船、フネ!
立ちのぼる陽炎でゆらめいて、ディテールは定かではありませんが、それがかえって、陸上では望みえない範囲の眺望を感じさせて面白く、ズームのありがたさを実感したものでした。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…5』につづく)

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灯器の回転はいうまでもなく電動ですが、かつては壁掛け時計と同じ重錘式で、夜間の運転中は何度も、錘を下げたロープを人力で巻き上げなければならなかったとのこと。螺旋階段を上がるだけでも大変なのに、さらに巻上機を回すその労力たるや‥‥。先人のご苦労がしのばれました。

●さて、回廊からの眺望は‥‥まずは北~北西側から。おお、絶景!
沖合はるかに望む第一・第二海堡。白くけぶる水平線付近に、市街地や京浜工業地帯の活動ぶりが思われるパノラマです。

●第二海堡が気になって、ズームでたぐってみると‥‥。おや、周囲に新しい護岸が追加されていたのですね。
砲台としての役目はとうの昔に終わっているとはいえ、ここは海上災害防止センターの訓練施設がある、いわば「現役」の島。保全工事がなされるのもうなずけます。

●右手、第一海堡に目を転じると、第二海堡とは対照的に、崩壊したままの放置感あふれる(?)風情。台場のように草木が茂ってもよさそうなものですが、そうならないのは、何か理由があるのでしょうか。

●おおお、この角度は楽しいかも。富津の明治百年記念展望台の向こうに延びる東京湾アクアライン、そしてこちらへ船首を向ける船、船、フネ!
立ちのぼる陽炎でゆらめいて、ディテールは定かではありませんが、それがかえって、陸上では望みえない範囲の眺望を感じさせて面白く、ズームのありがたさを実感したものでした。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…5』につづく)

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観音崎散歩…3
(『観音崎散歩…2』のつづき)

●灯台を付属舎のある東側から見たところ。外壁は定期的に塗り替えられているのか、とてもよい状態に保たれています。
加えてデザインが直線主体ということもあり、とても大正末の竣工とは思えない現代風に見えますが、入口のひさしや灯台の回廊などの下にある、持ち送りが描く曲線に、わずかに時代相応の雰囲気が感じられました。

●付属舎のひさしの下には、ご覧のような銘板‥‥というより、履歴板でしょうか。つぶれて判読しにくい部分もありますが、書き出してみましょう。
「臺燈埼音観/點初/日一月一年二治明/ 築改災(?)震/日五十月三年二十正大/日一月六年四十正大」
大正11年4月26日に、浦賀水道付近で起きた直下型地震により初代灯台が損傷、翌年改築成ったと思ったら、その年の9月にふたたび関東大震災に見舞われ再度建造と、何ともタイミングが悪かったとしかいいようのないことがこの履歴からも読み取れ、関係者のご苦労が察せられました。(参考:『8.観音埼灯台』横須賀市)
●そうそう、地名は観音「崎」ですが、灯台は観音「埼」なのですね。お恥ずかしいことに、まったく意識していなかったのですが、「灯台」をつけると、ちゃんと区別されて変換されているあたりは、さすがIME。
右の写真は、付属室の中、灯台本体の入口に掲げられた履歴板ですが、こちらはどういうわけだか、関東大震災後の改築が載っていません。先代灯台の履歴板を、あえて残したのでしょうか。
●付属室の1階部分には、ささやかながら展示物が。ガラスケースの中に、灯台で使用された各種の電球と、近代化産業遺産指定の認定書、そして額縁に入れられた油絵は、灯台補給船・ハルナンバーLL01時代の「宗谷」!
ご存知のとおり、後に南極観測船に抜擢され、補給船としての活躍は長くはありませんでしたが、灯台守が住みこんでいた時代には、本船の補給を待ち望んでいた職員家族が全国におられたことでしょう。有人管理時代の灯台を語るには、なくてはならない存在ですね。

●さて、楽しみな灯台の頂上へ。らせん階段に足を踏み入れると、壁面には全国の灯台の写真が、額縁に入れられてズラリ、これは壮観です。灯台の名前だけでなく、簡単な諸元も併記されていて、登っている最中も退屈させません。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…4』につづく)

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●灯台を付属舎のある東側から見たところ。外壁は定期的に塗り替えられているのか、とてもよい状態に保たれています。
加えてデザインが直線主体ということもあり、とても大正末の竣工とは思えない現代風に見えますが、入口のひさしや灯台の回廊などの下にある、持ち送りが描く曲線に、わずかに時代相応の雰囲気が感じられました。

●付属舎のひさしの下には、ご覧のような銘板‥‥というより、履歴板でしょうか。つぶれて判読しにくい部分もありますが、書き出してみましょう。
「臺燈埼音観/點初/日一月一年二治明/ 築改災(?)震/日五十月三年二十正大/日一月六年四十正大」
大正11年4月26日に、浦賀水道付近で起きた直下型地震により初代灯台が損傷、翌年改築成ったと思ったら、その年の9月にふたたび関東大震災に見舞われ再度建造と、何ともタイミングが悪かったとしかいいようのないことがこの履歴からも読み取れ、関係者のご苦労が察せられました。(参考:『8.観音埼灯台』横須賀市)

右の写真は、付属室の中、灯台本体の入口に掲げられた履歴板ですが、こちらはどういうわけだか、関東大震災後の改築が載っていません。先代灯台の履歴板を、あえて残したのでしょうか。

ご存知のとおり、後に南極観測船に抜擢され、補給船としての活躍は長くはありませんでしたが、灯台守が住みこんでいた時代には、本船の補給を待ち望んでいた職員家族が全国におられたことでしょう。有人管理時代の灯台を語るには、なくてはならない存在ですね。

●さて、楽しみな灯台の頂上へ。らせん階段に足を踏み入れると、壁面には全国の灯台の写真が、額縁に入れられてズラリ、これは壮観です。灯台の名前だけでなく、簡単な諸元も併記されていて、登っている最中も退屈させません。
(27年1月18日撮影)
(『観音崎散歩…4』につづく)

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