萬右衛門川の面影…6
(『萬右衛門川の面影…5』のつづき)
●さっそく反対側の親柱をのぞいてみると、ありました。「あさひはし」と平仮名の銘板が!
西側高欄の親柱が2つとも失われていたので、漢字はわかりませんでしたが、仮に旭橋としておきましょう。同様に竣工年も不明ながら、まず戦後の建造と思って間違いありますまい。
「運河論」の挿図を見ても、この付近に橋があったようですから、あるいは現役時代の萬右衛門川に架かっていた橋に続いて、2代目なのかもしれません。
●橋を外れて、水路終端部の北岸から南を見たところ。暗渠が口を開けており、海側へ排水を導いていました。ここが「新川」の事実上の最下流部です。
写真右側が旭橋で、河床から低い落差を経て、四角い溜升に注いでいました。
●「あさひはし」の銘があった親柱の位置から、北側を見たところ。北と東、二方とも暗渠が開口しているのが見えます。この溜升、側溝や周囲の雑排水が集中する、地域にとって重要な施設だったのですね。
そんなわけで、ここまで来ると萬右衛門川の面影は、全くといっていいほど見られなくなっていました。まあ、このあたりの「新川」も、萬右衛門川の幅を単純に狭めたというよりは、埋め立てた後に改めて整備された、と考えた方が自然のような気もしますが…。
運河時代の萬右衛門川は、この先道なりに東へ向かい、和田町3丁目、ひたちなか市武道館のあるあたりが旧海岸線で、海へ開口していました。

●現役時代の萬右衛門川にゆかりはない、単なる割下水となり果てた時代の橋とはいいながらも、旭橋のひなびた雰囲気には惹かれるものがあり、改めて西側高欄を一枚。
外側に歩道が増設されたせいでしょう、親柱は2つとも撤去されて、残った高欄もクルマに体当たりされ、剥離やひび割れも著しく、息も絶え絶えといったありさま。昨年の津波でも、もちろん痛めつけられたことでしょう。それでも、現役の橋として活躍していることを思えば、川が埋め立てられて、記念に親柱のみ残される橋より、境遇としてはましなのかもしれません。

ホンモノのGoogleマップで萬右衛門川を見る
●「運河論」の挿図をGoogleマップに落として、昭和10年時点での萬右衛門川の略図を描いてみました。何分資料が少ないのでごくラフなものです、悪しからず。いずれ古地図でも入手して、訂正したいと思っています、まずはご参考まで。両端がぶつりと途切れたように描いたのは、当時の基終点であった川岸・海岸線を想定したためです。
描きながら感じたのは、萬右衛門川は那珂湊漁港そのものだったということです。小型漁船の安全な繋船地と、市街地に接した荷揚場の延長を稼ぐために造られたものでしたから、おそらく現在の漁港の建設が決定したとき、萬右衛門川の役目は終わったのでしょう。

●帰り際、旭橋をふたたび通ったら、高覧の上に真っ白なコサギ君が留まっていました。寒いのでしょう、首をうずめてふくらまった姿が可愛らしいですね。驚かさないようにそーっと近づき、ズームでたぐって一枚撮らせてもらいました。
(24年1月2日撮影)
(『那珂川河口再訪』につづく)

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西側高欄の親柱が2つとも失われていたので、漢字はわかりませんでしたが、仮に旭橋としておきましょう。同様に竣工年も不明ながら、まず戦後の建造と思って間違いありますまい。
「運河論」の挿図を見ても、この付近に橋があったようですから、あるいは現役時代の萬右衛門川に架かっていた橋に続いて、2代目なのかもしれません。

写真右側が旭橋で、河床から低い落差を経て、四角い溜升に注いでいました。

そんなわけで、ここまで来ると萬右衛門川の面影は、全くといっていいほど見られなくなっていました。まあ、このあたりの「新川」も、萬右衛門川の幅を単純に狭めたというよりは、埋め立てた後に改めて整備された、と考えた方が自然のような気もしますが…。
運河時代の萬右衛門川は、この先道なりに東へ向かい、和田町3丁目、ひたちなか市武道館のあるあたりが旧海岸線で、海へ開口していました。

●現役時代の萬右衛門川にゆかりはない、単なる割下水となり果てた時代の橋とはいいながらも、旭橋のひなびた雰囲気には惹かれるものがあり、改めて西側高欄を一枚。
外側に歩道が増設されたせいでしょう、親柱は2つとも撤去されて、残った高欄もクルマに体当たりされ、剥離やひび割れも著しく、息も絶え絶えといったありさま。昨年の津波でも、もちろん痛めつけられたことでしょう。それでも、現役の橋として活躍していることを思えば、川が埋め立てられて、記念に親柱のみ残される橋より、境遇としてはましなのかもしれません。

ホンモノのGoogleマップで萬右衛門川を見る
●「運河論」の挿図をGoogleマップに落として、昭和10年時点での萬右衛門川の略図を描いてみました。何分資料が少ないのでごくラフなものです、悪しからず。いずれ古地図でも入手して、訂正したいと思っています、まずはご参考まで。両端がぶつりと途切れたように描いたのは、当時の基終点であった川岸・海岸線を想定したためです。
描きながら感じたのは、萬右衛門川は那珂湊漁港そのものだったということです。小型漁船の安全な繋船地と、市街地に接した荷揚場の延長を稼ぐために造られたものでしたから、おそらく現在の漁港の建設が決定したとき、萬右衛門川の役目は終わったのでしょう。

●帰り際、旭橋をふたたび通ったら、高覧の上に真っ白なコサギ君が留まっていました。寒いのでしょう、首をうずめてふくらまった姿が可愛らしいですね。驚かさないようにそーっと近づき、ズームでたぐって一枚撮らせてもらいました。
(24年1月2日撮影)
(『那珂川河口再訪』につづく)

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萬右衛門川の面影…5
(『萬右衛門川の面影…4』のつづき)
●できれば、萬右衛門川の現存している全区間を歩いてみたいところでしたが、残念ながらその時間はありません。せめて末端部近くだけでもと、湊本町の魚市場に沿った区間を眺めてみることにしました。
道に沿って、海側に伸びる「溝渠」という文字がしっくりくるようなコレが、萬右衛門川の現在の姿。向こうに見える、古いRC橋の高欄が、わずかに歴史を物語っているようでした。
こちらも津波の被害があったところですが、道に沿って並ぶ海鮮料理店はどこも賑わっており、一見したかぎりでは、以前とそう変わらないレベルまで、復興されたように感じられました。
●かつてはもっと幅が広く、それこそ現在道路になっている部分の大半は、水路だったのでしょう。
「運河論」の挿図を見ても、このあたりから北側の区間は、かなり幅広に表現されていました。魚市場の周辺のみ道幅が広いのは、かつての水路敷を利用したからではないでしょうか。
上の写真から少し歩き、「魚市場前」交差点を過ぎると、落差が造ってあるところを発見。「那珂川にも走っていた川蒸気」には、地図上の表現から、こちらが上流で、那珂川が下流と書いてしまいましたが、どうやら違うようです。お詫びして訂正します。
●魚市場の北端、信号のある五叉路の近くまで来ると、河道は右に緩いカーブを描き、最末端部ももうすぐ。おっ、ここでようやく萌えられそうな古い橋が…。
ちなみに、このあたりより南の区間は水が流れていないところもあり、建物からの雑排水があるところのみ、流水が見られるような状況でした。先ほどの那珂川近くの区間も、水を湛えていたとはいえ、ほとんど流れがなかったことを考えると、どちらが上流という厳密な区別は、ないのかもしれません。

●勇んで橋に近づいてみると、クルマに衝突されたのか、高欄や親柱の鉄筋が露出するようなボロボロっぷりながら、間違いなく睦橋と同世代のコンクリート橋です。
高覧の開口部上端が、アーチ状の曲線を描き、中の柵のみ円柱に造られているなど、むしろ造作は凝った感じです。漁港が築造されることを考えて、玄関口にふさわしい意匠としたのでしょうか。

●高欄が痛めつけられているだけに、銘が残っているのか心配になりましたが、のぞき込んで無事を確認、ホッとしました。南側の親柱は、二つとも撤去されていたので、北側が壊滅していると、手がかりが失われてしまうからです。
しかし、こちらは橋名でなく「新川」と河川名が掲げられていました。う~ん、やはり萬右衛門川でなく、新川なのか。橋名は対岸の親柱に残っているかな?
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…6』につづく)

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道に沿って、海側に伸びる「溝渠」という文字がしっくりくるようなコレが、萬右衛門川の現在の姿。向こうに見える、古いRC橋の高欄が、わずかに歴史を物語っているようでした。
こちらも津波の被害があったところですが、道に沿って並ぶ海鮮料理店はどこも賑わっており、一見したかぎりでは、以前とそう変わらないレベルまで、復興されたように感じられました。

「運河論」の挿図を見ても、このあたりから北側の区間は、かなり幅広に表現されていました。魚市場の周辺のみ道幅が広いのは、かつての水路敷を利用したからではないでしょうか。
上の写真から少し歩き、「魚市場前」交差点を過ぎると、落差が造ってあるところを発見。「那珂川にも走っていた川蒸気」には、地図上の表現から、こちらが上流で、那珂川が下流と書いてしまいましたが、どうやら違うようです。お詫びして訂正します。

ちなみに、このあたりより南の区間は水が流れていないところもあり、建物からの雑排水があるところのみ、流水が見られるような状況でした。先ほどの那珂川近くの区間も、水を湛えていたとはいえ、ほとんど流れがなかったことを考えると、どちらが上流という厳密な区別は、ないのかもしれません。

●勇んで橋に近づいてみると、クルマに衝突されたのか、高欄や親柱の鉄筋が露出するようなボロボロっぷりながら、間違いなく睦橋と同世代のコンクリート橋です。
高覧の開口部上端が、アーチ状の曲線を描き、中の柵のみ円柱に造られているなど、むしろ造作は凝った感じです。漁港が築造されることを考えて、玄関口にふさわしい意匠としたのでしょうか。

●高欄が痛めつけられているだけに、銘が残っているのか心配になりましたが、のぞき込んで無事を確認、ホッとしました。南側の親柱は、二つとも撤去されていたので、北側が壊滅していると、手がかりが失われてしまうからです。
しかし、こちらは橋名でなく「新川」と河川名が掲げられていました。う~ん、やはり萬右衛門川でなく、新川なのか。橋名は対岸の親柱に残っているかな?
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…6』につづく)

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萬右衛門川の面影…4
(『萬右衛門川の面影…3』のつづき)
●裏面に足場があったのを幸い、新川排水樋管の上に登ってみました。ご覧のとおり動力のたぐいは一切見られない簡素な構造で、恐らくギヤボックスにテコなどを差し入れて、ギッコ、ギッコとラチェットでラックを巻き上げる仕組みと思われます。
動力なし、しかも機側操作とくれば、昨年の地震による津波が襲った際には、駆けつけてゲートを閉めるなど、とてもできなかったことでしょう。
東京でも、津波の来襲を防ぐことができたのは、ほとんどの水門が遠隔操作化されていたからで、一部残っていた機側操作の水門では、交通麻痺などで現地にたどりつけず、津波の侵入を許してしまったことが思い出されます。
●河畔に降りて、ゲートの正面をと思ったのですが、やはり目を奪われてしまうのが、震災と津波の爪痕です。
護岸はひび割れて波打ち、内側の地表も大きく陥没して、道路沿いには高々と土嚢が積み上げられ、被害の大きさを物語っていました。4年前、この少し上流から撮った写真が、過去ログ「那珂湊には…」に載せてありますが、その変貌ぶりに言葉もありません。

●新川排水樋管のゲートを眺めて。扉体はほぼ閉じられているようでしたが、先ほどうねりが入ってきたのを見たとおり、水の出入りはあるので、細めには開いているのでしょう。
しかし、ゲート背後のそれは波返しの曲面が見られることからも、樋門の一部というより、やはり堤防としか思えません。なぜ樋門の部分だけ堤防を高めたのか、謎ではあります。
●ゲート左手には、排水機場の排水管がまるで竹やりのように中空へ突き出しており、少々剣呑な雰囲気。
樋門周りは、さすがに基礎がしっかり造られているのか、傾きやクラックはまったく見られませんでしたが、隣接する堤防は肩を落としたように陥没し、排水管の立ち上がりも床が浮いて、一歩踏み出すのも難渋するような状況です。
●ズームでぐっとたぐり寄せ、国道245号線・湊大橋を遠望。今回もこの橋を渡って那珂湊入りしたのですが、すぐ上流では新しい橋の工事をしているのが見られ、架け替えも近いことが感じられました。
「湊大橋」(茨城県土木部 水戸土木事務所)によると、湊大橋は昭和27年竣工で、渋滞の原因となっていることや、歩道がないなどの理由から架け替えを進めているとのこと。この美しい下路ランガートラスの姿が拝めるのも、もうあとわずかのようですね。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…5』につづく)

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動力なし、しかも機側操作とくれば、昨年の地震による津波が襲った際には、駆けつけてゲートを閉めるなど、とてもできなかったことでしょう。
東京でも、津波の来襲を防ぐことができたのは、ほとんどの水門が遠隔操作化されていたからで、一部残っていた機側操作の水門では、交通麻痺などで現地にたどりつけず、津波の侵入を許してしまったことが思い出されます。

護岸はひび割れて波打ち、内側の地表も大きく陥没して、道路沿いには高々と土嚢が積み上げられ、被害の大きさを物語っていました。4年前、この少し上流から撮った写真が、過去ログ「那珂湊には…」に載せてありますが、その変貌ぶりに言葉もありません。

●新川排水樋管のゲートを眺めて。扉体はほぼ閉じられているようでしたが、先ほどうねりが入ってきたのを見たとおり、水の出入りはあるので、細めには開いているのでしょう。
しかし、ゲート背後のそれは波返しの曲面が見られることからも、樋門の一部というより、やはり堤防としか思えません。なぜ樋門の部分だけ堤防を高めたのか、謎ではあります。

樋門周りは、さすがに基礎がしっかり造られているのか、傾きやクラックはまったく見られませんでしたが、隣接する堤防は肩を落としたように陥没し、排水管の立ち上がりも床が浮いて、一歩踏み出すのも難渋するような状況です。

「湊大橋」(茨城県土木部 水戸土木事務所)によると、湊大橋は昭和27年竣工で、渋滞の原因となっていることや、歩道がないなどの理由から架け替えを進めているとのこと。この美しい下路ランガートラスの姿が拝めるのも、もうあとわずかのようですね。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…5』につづく)

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萬右衛門川の面影…3
(『萬右衛門川の面影…2』のつづき)
●護岸の際に沿って、犬走り状の狭いスペースを伝い歩きしつつ、振り返ったところ。
昨年の地震によるものでしょう、護岸はクラックが入って、外れたり沈下した部分も見受けられました。睦橋付近はここほどではなかったので、やはり那珂川に近い場所は、地盤がより軟弱なのかもしれません。

●堤防の上に、白い柵で囲まれた、人力操作らしい巻き上げ装置が見えました。やはりあの裏には樋門があるようです。もっとも、堤防と思ったコンクリート壁は、水路幅より少し広い程度で途切れていました。どうやらこれは堤防ではなく、樋門の構造の一部のようですね。
格子で囲まれた吸水管があることから、建屋は排水機場で間違いありませんでしたが、排水管らしい太いパイプが、いったん水路を渡ってから地下にもぐり、那珂川に向かっているのが変わっています。

●柵の左に掲げられた、白い看板を見上げて読んでみました。河川の占有許可証ですね。
この樋門の名前は…「新川排水樋管」! う~ん、この水路はすでに萬右衛門川ではなく、「新川」と呼ばれているのか? 江戸以来の歴史を有し、後には「運河論」に載るほどの国内有数の運河となった、由緒ある萬右衛門川の名が消え失せてしまったとは、信じたくありませんでした。
(ちなみに排水機場も、Mapion地図に『新川排水ポンプ施設』と記されていました)
●壁面の左側に掲げられていた、石材製のプレート。昭和51年3月竣工、他には整理符号らしきものと樋管部分の護岸の延長に、施工主である茨城県の名を刻んだだけで、河川名はおろか、樋管名やメーカー名も入っていない、いささか寂しいものです。
ここで、少し冷静になって考えてみました。萬右衛門川の名を捨てて新川に変えたのではなく、新川も実は地元で長く用いられていた通称で、萬右衛門川という名前の方がむしろ、なじみが薄かったのではないかと…。まあ、妄想はさておき、表に回って、樋門のディテールを拝んでゆきましょう。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…4』につづく)

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昨年の地震によるものでしょう、護岸はクラックが入って、外れたり沈下した部分も見受けられました。睦橋付近はここほどではなかったので、やはり那珂川に近い場所は、地盤がより軟弱なのかもしれません。


格子で囲まれた吸水管があることから、建屋は排水機場で間違いありませんでしたが、排水管らしい太いパイプが、いったん水路を渡ってから地下にもぐり、那珂川に向かっているのが変わっています。

●柵の左に掲げられた、白い看板を見上げて読んでみました。河川の占有許可証ですね。
この樋門の名前は…「新川排水樋管」! う~ん、この水路はすでに萬右衛門川ではなく、「新川」と呼ばれているのか? 江戸以来の歴史を有し、後には「運河論」に載るほどの国内有数の運河となった、由緒ある萬右衛門川の名が消え失せてしまったとは、信じたくありませんでした。
(ちなみに排水機場も、Mapion地図に『新川排水ポンプ施設』と記されていました)

ここで、少し冷静になって考えてみました。萬右衛門川の名を捨てて新川に変えたのではなく、新川も実は地元で長く用いられていた通称で、萬右衛門川という名前の方がむしろ、なじみが薄かったのではないかと…。まあ、妄想はさておき、表に回って、樋門のディテールを拝んでゆきましょう。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…4』につづく)

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萬右衛門川の面影…2
(『萬右衛門川の面影…1』のつづき)

●睦橋の上から東側、初めて眺める萬右衛門川。
両岸に道路が沿い、周囲は低い家並が続く住宅街と明るい風景ですが、水路は完全にコンクリート護岸化されており、昔の面影をしのばせるものはなさそうですね。
ただ、向こうに小さく見える橋が、周囲の地表高とさして変わらない高さに架けられているのに対し、この睦橋は、両岸に高々と土盛りされ、桁下高を稼いでいるのを見ると、少なくとも、通船があったころの記憶を持っているように感じられました。ここを通る道が古くからの道で、もともと土盛りされていたということも考えられるでしょうが。

●同じく睦橋から、西側の眺め。河道は左へ2度屈曲して、那珂川との接続点に続いています。
しかし、水路幅は元からこんなに狭かったのでしょうか、いくら細身の和船でも、荷足や伝馬すら行き違いが難しそうです。可航水路としての役目を終えたとき、幅が狭められたのでしょうか。
とすると、睦橋は? 橋のところだけ橋台地が張り出していて、他は水路幅がもっとあったとか? いろいろ疑問が湧いてきたのですが、何か手掛かりはないかと改めて「運河論」を開いてみることに。
●以下「運河論」から、萬右衛門川の項を抜き書きしてみましょう。
第三款 萬右衛門川
萬右衛門川は現在の湊町辰ノ口橋付近にあった徳川家籾藏に那珂川の舟運に依る籾船廻送の便を計らんが為め萬右衛門なる者が掘鑿した幅五・四米の運河である。爾来水運業者並に漁業家に利便を與えたが、明治四五年茨城縣に於て幅員を九米に改修すると同時に、港口迄延長し、船溜を兼ねたる漁船航路を起工し、那珂川と港口とを連絡せしめた。其の後數次に亘り幅員を擴張し大正四年竣工を見たもので、萬右衛門川と總稱し、港灣航路に利用されて居る。
また、本文の後ろに列記されたデータのうち、いくつかを拾ってみると、延長1,901m、幅員14.54~32.73m、通過船舶の最大トン数は15tとありました。
●以上からわかるのは、創設時は幅6mにも満たない行き止まりの入堀であったこと、明治になって海岸線まで延長され、那珂川河口を経由しなくとも出入りできるようになったこと、「運河論」が発行された昭和10年の時点で、幅は少なくとも14m強はあったことです。
やはり、現在の幅員は狭められた結果ということがわかりました。しかし戦後まもなく、現在の睦橋が架けられたときの状態が気になります。
困ったときは「国土変遷アーカイブ」の空中写真を見ればわかるだろうと、国土地理院のサイトに行ってみると……。あらら、何と「現在停止中」の表示が! 残念。
●あきらめきれず、同様のサービスということで何か手掛かりがつかめればと、歴史的農業環境閲覧システムで、大洗のリンクへ行ってみると…おお! 明治時代の、行き止まりだったころの萬右衛門川が描かれている!
萬右衛門川の原型は、現在の海門橋北詰付近を終点として、端部には船溜があり、また海門町2-5あたりにも、分岐したかたちで船溜があったのですね。萬右衛門川の、運河としての最終状態は確認できませんでしたが、初期の形態を知ることができて、思わぬ拾いものをした気分でした。
●萬右衛門川の散策に戻りましょう。北岸に沿って西へ進み、最初の屈曲のあたりから睦橋を見て。
こうして見ると、可憐という言葉がしっくりくるような、小さな橋であることがわかります。また本来の地表高はかなり低く、橋が渡す道路の周辺のみが高く土盛りされていることも、改めて実感できました。
●上の写真とほぼ同地点から、南西側の眺め。すでに那珂川の堤防が顔をのぞかせています。
向こうにあるのは樋門でしょうか、護岸に黒く水の跡がついているところから、樋門は開いていて、干満に合わせて水の出入りがあることがわかりますね。向こうを船が通ったのか、ちょうど低いうねりがこちらへ向かってくるところを見ることができました。
水は澄んでいて、浅い河底に砂が波紋をつくり、ところどころ藻が生えているのが透けて見えます。貝がついていないところを見ると、海水はほとんど入ってきていないのでしょうか。
●さらに進んで、樋門の裏側とほぼ正対したところ。静かな水面に小鴨が2羽泳いでいて、のどかな雰囲気です。
樋門の手前、左側に見える建屋は排水機場でしょうか、河中から立ち上がって、建屋の中に入ってゆくパイプが気になります。護岸の上を歩いて、樋門に近づいてみることにしました。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…3』につづく)

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●睦橋の上から東側、初めて眺める萬右衛門川。
両岸に道路が沿い、周囲は低い家並が続く住宅街と明るい風景ですが、水路は完全にコンクリート護岸化されており、昔の面影をしのばせるものはなさそうですね。
ただ、向こうに小さく見える橋が、周囲の地表高とさして変わらない高さに架けられているのに対し、この睦橋は、両岸に高々と土盛りされ、桁下高を稼いでいるのを見ると、少なくとも、通船があったころの記憶を持っているように感じられました。ここを通る道が古くからの道で、もともと土盛りされていたということも考えられるでしょうが。

●同じく睦橋から、西側の眺め。河道は左へ2度屈曲して、那珂川との接続点に続いています。
しかし、水路幅は元からこんなに狭かったのでしょうか、いくら細身の和船でも、荷足や伝馬すら行き違いが難しそうです。可航水路としての役目を終えたとき、幅が狭められたのでしょうか。
とすると、睦橋は? 橋のところだけ橋台地が張り出していて、他は水路幅がもっとあったとか? いろいろ疑問が湧いてきたのですが、何か手掛かりはないかと改めて「運河論」を開いてみることに。
●以下「運河論」から、萬右衛門川の項を抜き書きしてみましょう。
第三款 萬右衛門川
萬右衛門川は現在の湊町辰ノ口橋付近にあった徳川家籾藏に那珂川の舟運に依る籾船廻送の便を計らんが為め萬右衛門なる者が掘鑿した幅五・四米の運河である。爾来水運業者並に漁業家に利便を與えたが、明治四五年茨城縣に於て幅員を九米に改修すると同時に、港口迄延長し、船溜を兼ねたる漁船航路を起工し、那珂川と港口とを連絡せしめた。其の後數次に亘り幅員を擴張し大正四年竣工を見たもので、萬右衛門川と總稱し、港灣航路に利用されて居る。
また、本文の後ろに列記されたデータのうち、いくつかを拾ってみると、延長1,901m、幅員14.54~32.73m、通過船舶の最大トン数は15tとありました。
●以上からわかるのは、創設時は幅6mにも満たない行き止まりの入堀であったこと、明治になって海岸線まで延長され、那珂川河口を経由しなくとも出入りできるようになったこと、「運河論」が発行された昭和10年の時点で、幅は少なくとも14m強はあったことです。
やはり、現在の幅員は狭められた結果ということがわかりました。しかし戦後まもなく、現在の睦橋が架けられたときの状態が気になります。
困ったときは「国土変遷アーカイブ」の空中写真を見ればわかるだろうと、国土地理院のサイトに行ってみると……。あらら、何と「現在停止中」の表示が! 残念。
●あきらめきれず、同様のサービスということで何か手掛かりがつかめればと、歴史的農業環境閲覧システムで、大洗のリンクへ行ってみると…おお! 明治時代の、行き止まりだったころの萬右衛門川が描かれている!
萬右衛門川の原型は、現在の海門橋北詰付近を終点として、端部には船溜があり、また海門町2-5あたりにも、分岐したかたちで船溜があったのですね。萬右衛門川の、運河としての最終状態は確認できませんでしたが、初期の形態を知ることができて、思わぬ拾いものをした気分でした。

こうして見ると、可憐という言葉がしっくりくるような、小さな橋であることがわかります。また本来の地表高はかなり低く、橋が渡す道路の周辺のみが高く土盛りされていることも、改めて実感できました。

向こうにあるのは樋門でしょうか、護岸に黒く水の跡がついているところから、樋門は開いていて、干満に合わせて水の出入りがあることがわかりますね。向こうを船が通ったのか、ちょうど低いうねりがこちらへ向かってくるところを見ることができました。
水は澄んでいて、浅い河底に砂が波紋をつくり、ところどころ藻が生えているのが透けて見えます。貝がついていないところを見ると、海水はほとんど入ってきていないのでしょうか。

樋門の手前、左側に見える建屋は排水機場でしょうか、河中から立ち上がって、建屋の中に入ってゆくパイプが気になります。護岸の上を歩いて、樋門に近づいてみることにしました。
【撮影地点のMapion地図】
(24年1月2日撮影)
(『萬右衛門川の面影…3』につづく)

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