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錦絵の中の通運丸

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東京名所之内兩國𣘺大花火之真圖
3枚組錦絵、豊原周春画、明治20年発行。「アサクサ区駒形丁四十二バンチ  画工〇(不明)出版人 児玉又七」の表記あり


他所では簡単に紹介したことがありますが、こちらでは初めてと思います。隅田川、両国の花火見物に繰り出した人々や川船たちを描写した大判の錦絵で、汽船原発場や通運丸も絵柄の一部に取り込まれていることから、明治の河川舟運を題材にした史料として知られているもの。

たびたび触れている関東川蒸気船のエンサイクロペディア、「図説 川の上の近代」にも収録されているので、ご存じの方も多いでしょう。

入手して4年ほど経つでしょうか、傷まないようすぐに額装を依頼したので、正確な寸法を測っておけばよかったと後悔したものの、時すでに遅し。貼り込み時のズレもあるでしょうからおおよそですが、710×360㎜くらいと思われます。

有名な錦絵が縁あって手元に来た喜び、それは例えようのないもので、花火の破裂音や橋上を埋める人々(落橋しないか心配になるレベルですが)の歓声、川面を埋めるフネブネの艪音や、豪壮な屋形船の弦歌さんざめくさままで、夜の川面の賑わいが聞こえてきそうな生き生きとした描写に、陶然と見入ったものでした。

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初号船の就航から10年、大川筋の華だった通運丸も、舷を触れんばかりに繰り出した和船群に囲まれては、モブシーンの一キャラクターといったところ。

モディファイの度合いも激しく、極端に寸詰められた丸っこい姿は、チョロQやたまご飛行機といった、ショーティーモデルを思い起こさせるものが。どこか可愛らしくて、決して嫌いではありません。ぬいぐるみが欲しくなりますね!

ちょっと首をかしげてしまうのは、左が上流で船首、キセル型ベンチレーターとも左を向いているのに、2本出ている錨綱は船尾のみであること。“モブキャラ”(笑)扱いだけに、このあたりの描写も少々、アバウトに済まされたといったところでしょうか。

まあ、ショーティーモデル風についていうなら、周りに浮かぶ和船たちも、全体的に寸詰まりに描かれているものが多いので、豊原周春の画風というものなのかもしれません。

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通運丸の扱いはさておき、史料としてこれは、と注目される描き込みがなされているあたり、興味を惹かれるものが。画面やや左手、レンガの洋館に隣接したあたりに立つ一本の角柱。「郵便御用通運丸定繋杭」、と、はっきり描き込まれているのです。

単なる民間事業でなく、お上の御用であるぞ、というあたりをアピールしているのか、それとも役所から指示があっての、法定表記みたいな設置なのか‥‥。

その右下には「EE通EE」と書かれた、このころの内国通運の旗も見えますね。Eはエクスプレスの意で、通運丸も略同のものを掲げていたはずです。Eの数は用途や時代によってまちまちで、「通」の両側に1つづつから、分社旗などシンメトリカル(つまり左側はヨ)に5つづつもズラリと並べたものもあり、バリエーションに富んでいました。

頂部に風見鶏の方位針のような、真鍮の装飾が設けられたハイカラな塔屋は、原発場の建物ですね。以前紹介した錦絵(『通運丸の複製錦絵から始まる興味深いあれこれ』参照)にも描かれています。この当時の写真があったら、描写の精度を見くらべてみたいものです。

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そうそう、先日アップした記事、「川蒸気船の絵葉書5題」で色褪せた台紙貼り写真「東京兩國橋」を紹介しましたが、一つ書き忘れたことがありまして‥‥今回の錦絵にも関連するので、ここで補足します。

左端に見える角材の構造物、どう見ても洋式木造橋の親柱で、相応に丁寧でしっかりとした造りです。少なくとも岸辺の柵や桟橋の手すりみたいな、簡素なものではありませんよね。

「明治の初めには、ここにも入堀か小河川の落とし口があったのかなあ‥‥」と、もやもやと想像するのみでしたが、ふと思い当たるところがあって、額装した錦絵を改めて眺めてみたのでした。

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写真の橋があった! 右下の隅、端っこも端っこで、手前は紫色をしたカスミ様の何かに隠されてしまっていますが、確かに洋式木造の小橋梁が描かれていたのです!

写真の撮影時からおよそ10年以上を経て、水際も恐らく石垣などで護岸され、土盛りもなされたのでしょう、橋詰から河畔側へはみ出す形で、家屋が建てられています。汽船原発場ができたことで、このあたりも整地、開発がなされたことが感じられ、興趣大いに深まったことではありました。

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タグ : 川蒸気船 通運丸 隅田川 絵葉書・古写真

川蒸気船の絵葉書5題

267006_9.jpg久方ぶりに通運丸、銚子丸の絵葉書を愛でて悦に入りたくなり、手元にある古い絵葉書や写真から、5点を選んでみました。

何分風景の一部として撮られたものが多いため、史料としてはいま一つと思われますが、水運時代の雰囲気を味わうよすがとしては、自分の目から見ても大いに堪能させるレベルではあります。しばしお付き合いいただければ幸いです。

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花畑運河の絵葉書

(『令和2年度川走り納め…7』のつづき)

花畑運河の回が終わったばかりで、タイミングが悪くて恐縮です。花畑運河の竣工は昭和6年とされていますが、その竣工間もないころを写したと思しき、写真の絵葉書を入手できたので、ここで紹介させていただきましょう。過去にウェブや書籍で、花畑運河現役時の写真は何度か目にしていますが、絵葉書はこれが初めてです。

開けた風景の中、歪みなくパース画のように伸びる、いかにも新開鑿といった雰囲気は、こうして眺めているだけでも実に清々しいものがあります。「混凝土(コンクリート)張護岸」のタイトルが示すとおり、護岸の施工状況の記録が、主題になった写真という意味でも珍しいですね。

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花畑運河混凝土張護岸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


花畑運河が竣工した昭和初期、東京の都心部など街場の運河ならともかく、田園地帯を横切る郊外の運河の、しかも全区間にコンクリート法面を施したというのは、絵葉書の題材になりうるインパクトがあったということなのでしょう。

法面は見たかぎり、途中で勾配を変えており、天端には縁石様のブロックを並べた構造のようです。先ほど通航時の写真と見比べて気づかされたのですが、竣工時の護岸、傷みみながらも現存していますね。もちろん今はこの上に、後付けの護岸や鋼矢板の堤防が積み増されていますが。

ちなみに運河開鑿と並行して、両岸に接する一帯は道路とともに碁盤目に区画整理され、工場用地として整備されたとのこと。写真からはその様子はうかがい知れませんが、家並みも乏しいフラットな風景に、新開地らしさが感じられます。

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さて、気になるのは、この写真がどこを写したものかということ。RC橋らしき橋の架かった、マイタゲートであろう水門の径間が見えるので、現在の六ツ木水門か花畑水門のどちらかで、しかも橋の上から撮ったもの、ということになります。

堤防道の高さが割とあり、同様に橋の桁下高も高いこと、また写真では少なくとも、橋が斜に架かっていないように見えることから、「花畑水門かな?」と見当をつけたのですが、やはり裏を取りたいもの。手掛かりになりそうなものがもう一つあるとすれば、対岸にこんもりと茂っている木立かな‥‥。

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困ったときの国土変遷アーカイブ・地図・空中写真閲覧サービスということで、国土地理院のお力にすがって検索。竣工時にできるだけ近い時代、しかも鮮明なものをと物色したら、ありました。「USA-M676-135」(昭和22年11月28日・米軍撮影)、上はそのキャプチャ画像です。

対岸の集落に木立が見えるのは綾瀬川で、中川にはそれがないことがこの写真からもわかります。堤防道や橋の高さ、河道に対する道の角度と併せて考えても、花畑水門と月見橋を、雪見橋から見た写真で間違いなさそうです。

物流の大動脈として開鑿が待望され、舟航が輻輳を極めようとしていた時代の花畑運河の姿。その清新な水路の息吹きを再訪から間もなく垣間見る機会に恵まれて、嬉しいことではありました。

【参考文献】
帝都地形図 第2集 之潮

(『令和2年度川走り納め…8』につづく)

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タグ : 花畑運河 絵葉書・古写真

大河津の絵葉書

(『雨の大河津にて…2』のつづき)

お次は洗堰と閘門を訪ねた話を‥‥と思っていたのですが、消え失せてしまった旧洗堰併設の初代閘門の絵葉書を、一枚なりともブログ上に掲げて姿を留めておきたいものだと、古絵葉書のアルバムを繰りはじめたところ‥‥う~ん、楽しい(笑)。

そんなわけで、他にも竣工当初を偲ばせ、また興趣をそそるものが出てきたこともあり、一枚で済ますのが惜しくなってきたのです。大河津を訪ねたばかりの興奮冷めやらぬタイムリーさにも背中を押され、5枚を選んで悦に入ることにしました。

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(信濃川分水工事)竣功シタル大河津閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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内務省新潟土木出張所工事状況 五千石閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
(年賀葉書として使用、通信欄に『大正七年正月』のゴム印あり。『新潟靑木製』の銘)


一枚目が一応の竣工を迎えた初代閘門、二枚目が工事中の姿で、建物の様子から見て、どちらもほぼ同じ位置から撮ったもののようです。大河津の諸施設の竣工は公式には大正11年ですが、閘門はそれより数年早く、通船はしないまでも、外観が整うレベルの工事を終えていたのでしょうか。

ご覧のとおりマイタゲート、閘室両岸は石組みの法面という構成で、大河津資料館のサイトによると、閘室長60.6m、幅員(径間?)10.9mで大正14年の竣工。昭和46年に、ローラーゲートの二代目閘門が完成していますから、恐らくその時点をもって引退したのでしょう。

何より気になったのが、二枚目のキャプションに「五千石閘門」という名前が出てきたこと。手元に何枚かあるこの閘門を写した絵葉書のうち、「五千石」なる名称が記されたのはこの一枚のみで、入手した当時は「えっ、そういう名前だったの?」と驚かされたものでした。

地図を見てみたら、今の大河津分水さくら公園から北、分水東岸に沿った広大なエリアの地名が「五千石」なのですね。この閘門が正式にそう名付けられたかは確認していませんが、いかにも穀倉地帯といった豪気さがあって、よく似合うじゃないですか。


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(信濃川分水工事)第一洗堰
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


こちらは旧洗堰の工事中の様子をとらえた着色写真。「鋼製ゲート百選」(技報堂出版)によると、一つの径間は4.15m、当初は高さ2m余の扉体と角落しで越流させていたのが、改修を経て扉高3.1mのローラーゲートとなり、下端から放流するタイプに変わったとのこと。保存されているのは、この最終状態のゲートですね。27径間が並ぶ圧倒的な光景は、築造当初からさぞ耳目を集めたことでしょう。

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(大河津分水)自在堰全景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


昭和2年6月に洗堀で陥没した、初代の自在堰の姿。堰柱天端に建てられた、ごつい送電鉄塔群の方が目立つ外観は、昨今のゲートを見慣れた目には珍しく映りますね。河岸沿いに、当時の堰柱の一つが遺構として現存しているそうです。ベア・トラップ式ゲートの構造については、大河津資料館のサイトに図説されています。

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飛行機上ヨリ見タル舊分水自在堰地蔵堂町及近村全景(地蔵堂商工會發行)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
(切手欄に『NIIGATA AOKI PRINTING CO.』の銘あり)


最後に、大河津一帯を収めた航空写真の絵葉書を紹介しましょう。キャプションにある地蔵堂は、JR越後線分水駅近くに今も残る地名ですが、この当時に航空写真の絵葉書を作るほど、商工会に威勢があったことを感じさせます。

中央やや左から分水の自在堰、その右下に洗堰、そのさらに下には初代閘門と、分水竣工間もなくの諸施設の位置関係が見て取れます。閘門のすぐ下、「舊分水自在堰」という書き方からすると、この絵葉書は自在堰が壊れた、昭和2年6月以降の発行かもしれません。

【追記】
アップしたのをすっかり忘れていました‥‥。「アルス『河川工学』に涙する」で紹介した「閘門主要寸法」によると、大河津の初代閘門は扉室幅10.9m、閘室長60m、有効長72mと、資料館のサイトと微妙に異なる数字。その他の寸法もリンク先の記事に表がアップしてあります。

(『雨の大河津にて…3』につづく)

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タグ : 信濃川 大河津分水 五千石閘門 閘門 絵葉書・古写真

新潟の川蒸気・安進丸の「*」は‥‥

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新潟の川蒸気史覚え書き」の冒頭に掲載したこの1枚。萬代橋北詰にもやう、安進丸とみられる外輪川蒸気の写真で、外輪カバーの「『*』に見える文字は、社章など何かのシンボルだろうか?」と疑問を呈して、そのまま調べもせず(ごめんなさい)早や8年。
ちなみに上に掲げたものは、「新潟の川蒸気ふたたび」に再録した、同じ写真の高解像度版です。

新潟訪問の際にも資料をご案内いただいてお世話になった、新潟市歴史博物館・みなとぴあのTwitterを先日、たまたま発見。興味深く拝読していたところ、いきなり8年来の謎が解明して、躍り上がったのであります!

「*」が社名の上と外輪カバーに!! 旗も掲げられている!
この扱いから見て、社章と思って間違いないでしょう。8年来の謎がおかげさまで氷解、みなとぴあのウェブご担当様に、厚く御礼申し上げます!

絵柄からして、最初、引き札か何かと思っていたら、この一つ前のツイートによれば、明治22年刊の「北越商工便覧」掲載のものだそう。

明治の中ごろとて、社屋も普通の商家らしい造りで、道ゆく人もほとんどが和装のようですね。しかし、この単純明快な社章の由来を知りたいものです。意外と「外輪のスポークから採った」とか、意匠にたがわずシンプルな理由だったりして。

過去のツイートを追って拝見してゆくと、安進社の社章がもう一つ見つかりました。こちらは初代の五姓田芳柳(生没年:文政10年~明治25年)による、北詰から見た萬代橋を描いた絵画。橋を渡る一人一人の仕草や装い、親柱の文字一つ一つ、それに遠くの川面には川蒸気船もと、細部まで描き込まれていて、眺めているだけで楽しくなりますよね。

こちらの絵が嬉しかったのは、安進社の社章の色が赤かったことを、今に伝えてくれたことです。安進社は、明治19年に安全社と彙進社が合併してつくられた船社ですが、当時の経営者たちは、企業のイメージカラーというべき真っ赤なアスターリスクに、どんな想いを込めたのでしょうか‥‥。

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タグ : 信濃川 川蒸気船 絵葉書・古写真