奈良ドリームランドの「通運丸」、絵葉書があった!
●以前、「奈良ドリームランドの『通運丸』」で、モディファイされたものながら、川蒸気船・通運丸が遊園地の乗り物として運航されていたお話を書きました。ついこの間のことと思っていたら、もう12年前になるのですね。
昔の工作雑誌にあった小さな写真で存在に気づかされ、その道の研究家がアップされたサイトや写真で就航当時の姿も拝見できと、インターネッツ時代の恩恵にあずかり、ありがたいかぎりではありましたが、個人的に史料が入手できたとか、その後の進展は絶えてなく、少々寂しい思いを残したまま時を過ごしてきたのでした。

●帆船おしょろ丸と外輪船第三十六通運船
宛名・通信欄比率1:1、「奈良夢の国ドリームランド」の銘あり。
●ところが、ようやく最近になって、一枚のみながら当時の絵葉書を入手できたのです! いや、嬉しかったですねえ。奈良ドリームランドの開園は昭和36年ですから、その当時に写されたとすれば、62年前の光景になります。
タイトルでいきなり「第三十六通運船」と、誤植をかましてくるのはご愛敬ですが‥‥。青空の下、疎林のある丘をバックに、船溜(?)で憩う僚船「おしょろ丸」とともに、たくさんの乗船客で賑わう「第三十六通運丸」の左舷側面がとらえられていて、どこかのんびりとした、いい雰囲気のスナップじゃないですか。

●通運丸をトリミングしてアップで。何分アミ点が荒いので、拡大してもディテールが鮮明に読み取れるわけではないのが残念ですが、人物とくらべて煙突やデッキ、マストの高さなど各部の寸法はわかるのがありがたい点。
●以前の記事に書いたことの繰り返しになりますが、実物の第三十六通運丸とは似ても似つかないにせよ、アレンジの妙といいましょうか、明治のフネっぽく、違和感なくまとめられたある意味佳作だと思うのですね。
マストがあるため、橋のある川は走れないものの、昭和初期の観光で盛り上がる水郷にいても、まったくおかしくない雰囲気。それこそ現代の霞ケ浦で、カタマラン観光船「ホワイトアイリス」と一緒に、"レトロ版遊覧船"として就航してほしくなるような‥‥。
●人々の記憶から消え去りながら、戦後になって突如、川蒸気をモデルとした遊覧船が復活した唯一の例を、いきさつも含めて、何とか記録にとどめておきたいものです。
建造された造船所だけでもわかれば、お話を伺いにお邪魔したいくらいの気持ちはあるのですが。何かのきっかけでご縁ができることを、また気長に待つとしましょう。

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昔の工作雑誌にあった小さな写真で存在に気づかされ、その道の研究家がアップされたサイトや写真で就航当時の姿も拝見できと、インターネッツ時代の恩恵にあずかり、ありがたいかぎりではありましたが、個人的に史料が入手できたとか、その後の進展は絶えてなく、少々寂しい思いを残したまま時を過ごしてきたのでした。

●帆船おしょろ丸と外輪船第三十六通運船
宛名・通信欄比率1:1、「奈良夢の国ドリームランド」の銘あり。
●ところが、ようやく最近になって、一枚のみながら当時の絵葉書を入手できたのです! いや、嬉しかったですねえ。奈良ドリームランドの開園は昭和36年ですから、その当時に写されたとすれば、62年前の光景になります。
タイトルでいきなり「第三十六通運船」と、誤植をかましてくるのはご愛敬ですが‥‥。青空の下、疎林のある丘をバックに、船溜(?)で憩う僚船「おしょろ丸」とともに、たくさんの乗船客で賑わう「第三十六通運丸」の左舷側面がとらえられていて、どこかのんびりとした、いい雰囲気のスナップじゃないですか。

●通運丸をトリミングしてアップで。何分アミ点が荒いので、拡大してもディテールが鮮明に読み取れるわけではないのが残念ですが、人物とくらべて煙突やデッキ、マストの高さなど各部の寸法はわかるのがありがたい点。
●以前の記事に書いたことの繰り返しになりますが、実物の第三十六通運丸とは似ても似つかないにせよ、アレンジの妙といいましょうか、明治のフネっぽく、違和感なくまとめられたある意味佳作だと思うのですね。
マストがあるため、橋のある川は走れないものの、昭和初期の観光で盛り上がる水郷にいても、まったくおかしくない雰囲気。それこそ現代の霞ケ浦で、カタマラン観光船「ホワイトアイリス」と一緒に、"レトロ版遊覧船"として就航してほしくなるような‥‥。
●人々の記憶から消え去りながら、戦後になって突如、川蒸気をモデルとした遊覧船が復活した唯一の例を、いきさつも含めて、何とか記録にとどめておきたいものです。
建造された造船所だけでもわかれば、お話を伺いにお邪魔したいくらいの気持ちはあるのですが。何かのきっかけでご縁ができることを、また気長に待つとしましょう。

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八郎潟の閘門を訪ねて…4
(『八郎潟の閘門を訪ねて…3』のつづき)

●いよいよ閘門が近づいてきました! 閘門の径間は一番左で、その右が魚道ゲート。その左手陸上に見える二階家は、防潮水門全体の操作室棟でしょう。閘門と魚道の部分のみ、管理橋が橋脚にRC桁を載せた造りでなく、橋台を兼ねたラーメン構造になってるのが面白いですね。
●その右に隣接した、越流ゲート。水位差は見たところ、0.5mあるかなきかといったところ。正式名称は放流ゲートで、東(潟上市)側にももう1径間あります。
防潮水門閘門、ウェブ上の情報が極めて少なく、公式である「八郎潟防潮水門施設情報」、「秋田県八郎潟防潮水門管理条例施行規則」ともに、閘門の通航法や通航可能船艇の寸法、通航時間など、本来掲げてしかるべき告知は、何もありません。
●通航の様子をレポートした記事としては、「八郎潟水門を自分で開閉して海に出る」(乙幡啓子氏著・デイリーポータルZ)が長らく唯一で、平成19年8月のアップですから、もはや古典(?)といっていいほど。この記事のおかげでようやく、閘室で上陸してのセルフ操作であることが判明、嬉しく拝見したことを思い出します。
動画は「水門突破!八郎潟からボートで海に出て釣りをする!」(野外観察倶楽部 O.O.C)がありますが、アップされたのはつい最近で3年前。何分釣りが主題とて、閘門のシーンはほんの一瞬に過ぎず、製作者の方には申しわけないことながら、通しで拝見して拍子抜けしてしまったのは正直なところです。しかし、現役で稼働しているのはわかったのですから、ありがたいことには違いありません。検索漏れでほかにもあったらごめんなさい。
●閘門好きの一喜一憂はさておき、公式がこうも閘門に対して(駄洒落ではありませぬ)冷淡かつ、ウェブ上の通航談も限られるとくれば、訪問の難易度も高いような気がして、不安になるもの。
それだけに今回、戸田釣具店さん、船頭のSさんが引き受けてくださったときは、まことに、嬉しさもひとしおだったのでありました。重ねて御礼申し上げます!

●八郎潟―防潮水門
104㎜×143㎜ 絵葉書セット「男鹿半島-八郎潟-」の一枚。裏面「TOHOKU CARD PRINTED IN SENDAI」の記載あり。切手欄7円。
●ここで、絵葉書セットの中から、先代防潮水門‥‥幸運にも閘門の姿を間近に写した一枚があったのでご紹介しましょう。切手貼付欄が7円でしたから、昭和41~47年に発行されたものと推定できます。河岸に接した現在の閘門と異なり、3径間の固定堰と魚道を介して設けられていました。
閘門に隣接してひときわ高い堰柱の径間がありますが、これは可動橋を備えた径間のため、ゲートも高く上げる必要があるから。いわば通船門というわけです。船越水道には、短期間ながら3つの可動橋が併存していたのですね!
先代防潮水門は昭和36年3月竣工。昭和58年5月に発生した日本海中部地震で一部が破損したこともあり、現在の防潮水門をすぐ上流側に新設、平成19年に竣工したそうです。
●さてさて、閘門通航のお話に戻りましょう。右手の魚道径間をチラ見しながら、トンネルのようなラーメン橋台に突入。うひひ。
セルフ操作の閘門なら、少なくとも関東のそれであれば操作方法や運転時刻、緊急時の対処法や禁止事項などなど、もろもろの説明が書かれた看板が掲げられているのが普通ですが、こちらはご覧のとおり何もなし。
ウェブ上に公式の情報が皆無であることに加え、この淡泊(?)さを目の当たりにして、う~んと唸ってしました。例え地元の限られた方々のみに供する施設にしても、セルフ閘門で注意書きが全くないのは、失礼ながら少々異様な感じがしたものでした‥‥。

●何はともあれ、十数年来の念願がかなう瞬間がやってまいりました!
ゲートのステータスは、前扉室が開、後扉室が閉。前扉室ゲートを閉めて閘室を排水、後扉室ゲートを開く、というプロセスをフルに楽しめるのです!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月25日撮影)
(『八郎潟の閘門を訪ねて…5』につづく)

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●いよいよ閘門が近づいてきました! 閘門の径間は一番左で、その右が魚道ゲート。その左手陸上に見える二階家は、防潮水門全体の操作室棟でしょう。閘門と魚道の部分のみ、管理橋が橋脚にRC桁を載せた造りでなく、橋台を兼ねたラーメン構造になってるのが面白いですね。

防潮水門閘門、ウェブ上の情報が極めて少なく、公式である「八郎潟防潮水門施設情報」、「秋田県八郎潟防潮水門管理条例施行規則」ともに、閘門の通航法や通航可能船艇の寸法、通航時間など、本来掲げてしかるべき告知は、何もありません。
●通航の様子をレポートした記事としては、「八郎潟水門を自分で開閉して海に出る」(乙幡啓子氏著・デイリーポータルZ)が長らく唯一で、平成19年8月のアップですから、もはや古典(?)といっていいほど。この記事のおかげでようやく、閘室で上陸してのセルフ操作であることが判明、嬉しく拝見したことを思い出します。
動画は「水門突破!八郎潟からボートで海に出て釣りをする!」(野外観察倶楽部 O.O.C)がありますが、アップされたのはつい最近で3年前。何分釣りが主題とて、閘門のシーンはほんの一瞬に過ぎず、製作者の方には申しわけないことながら、通しで拝見して拍子抜けしてしまったのは正直なところです。しかし、現役で稼働しているのはわかったのですから、ありがたいことには違いありません。検索漏れでほかにもあったらごめんなさい。
●閘門好きの一喜一憂はさておき、公式がこうも閘門に対して(駄洒落ではありませぬ)冷淡かつ、ウェブ上の通航談も限られるとくれば、訪問の難易度も高いような気がして、不安になるもの。
それだけに今回、戸田釣具店さん、船頭のSさんが引き受けてくださったときは、まことに、嬉しさもひとしおだったのでありました。重ねて御礼申し上げます!

●八郎潟―防潮水門
104㎜×143㎜ 絵葉書セット「男鹿半島-八郎潟-」の一枚。裏面「TOHOKU CARD PRINTED IN SENDAI」の記載あり。切手欄7円。
●ここで、絵葉書セットの中から、先代防潮水門‥‥幸運にも閘門の姿を間近に写した一枚があったのでご紹介しましょう。切手貼付欄が7円でしたから、昭和41~47年に発行されたものと推定できます。河岸に接した現在の閘門と異なり、3径間の固定堰と魚道を介して設けられていました。
閘門に隣接してひときわ高い堰柱の径間がありますが、これは可動橋を備えた径間のため、ゲートも高く上げる必要があるから。いわば通船門というわけです。船越水道には、短期間ながら3つの可動橋が併存していたのですね!
先代防潮水門は昭和36年3月竣工。昭和58年5月に発生した日本海中部地震で一部が破損したこともあり、現在の防潮水門をすぐ上流側に新設、平成19年に竣工したそうです。

セルフ操作の閘門なら、少なくとも関東のそれであれば操作方法や運転時刻、緊急時の対処法や禁止事項などなど、もろもろの説明が書かれた看板が掲げられているのが普通ですが、こちらはご覧のとおり何もなし。
ウェブ上に公式の情報が皆無であることに加え、この淡泊(?)さを目の当たりにして、う~んと唸ってしました。例え地元の限られた方々のみに供する施設にしても、セルフ閘門で注意書きが全くないのは、失礼ながら少々異様な感じがしたものでした‥‥。

●何はともあれ、十数年来の念願がかなう瞬間がやってまいりました!
ゲートのステータスは、前扉室が開、後扉室が閉。前扉室ゲートを閉めて閘室を排水、後扉室ゲートを開く、というプロセスをフルに楽しめるのです!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月25日撮影)
(『八郎潟の閘門を訪ねて…5』につづく)

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水郷観光の華をしのんで
●久しぶりに水郷のお話とまいりましょう。過去にもたびたび触れてきましたが、下利根・霞ケ浦・北浦一帯に覇を唱え、関東の内水汽船時代に最後の輝きを見せた船社、水郷汽船。その花形として知られた2隻の鋼製ディーゼル船、「さつき丸」「あやめ丸」の姿に惹かれて入手したリーフレットと絵葉書、二葉を紹介させていただきます。

●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】
水郷汽船史 白戸貞夫 羽成裕子 編 筑波書林 昭和59年1月

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●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】


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戦前の水門絵葉書2題
●しばらくぶりに、昔の絵葉書の話題とまいりましょう。奇しくも、ここに掲げた2つのゲートは廃止された後も撤去されず、記念物として現存しています。
昭和戦前から前の写真絵葉書で、ローラーゲートやスライドゲートのように、扉体が堰柱の間を上下するタイプの水門を題材にしたものは、あまり入手できていません。こういうタイプがそもそも少なかった時代ということもありますが、堰のような大規模な施設にくらべると、地味な存在でいわゆる写真映えがせず、絵葉書の題材としていま一つと見られたのでしょうか。単にご縁がないだけかもしれませんが。

●新釧路川取入口岩保木水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●装飾のない、この時代としては現代的な風貌の2径間ゲート。Wikipedia「岩保木水門」によると、岩保木は「いわぼっき」と読み、昭和6(1931)年8月の竣工。釧路湿原の端部に位置する、新旧の河道の境界に設けられた水門設備なのだそう。
写真を観察すると、堰柱手前側面に鉄筋が突き出しているなど、竣工間近ながら残工事もあることがうかがえますね。巻上機周りはむき出しで、人力操作のクランクが目を引きますが、これは上屋が未施工だったためで、ウェブ上に発表された現状の写真には、木造の巻上機室が見られます。
●正確な各部の寸法やゲート型式など、諸元については資料がないので残念ながらわかりませんが、木造巻上機室の造作が魅力的だからでしょう、地元の方々からも近代遺構として愛されているように見受けられました。

●名古屋港第八號地貯木塲ニ設置セル閘門ノ光景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●チョコンと載っかった小屋のような巻上機室に、角のように突き出すラック、そのラックも扉体とイコライザー様の金具で結合されているという、強烈かつ変わり種の外観に一目ぼれして、もう反射的に購入したもの。
右上に営業所、出張所の案内があることから、このゲートを建造したメーカーの宣伝物であることは察しがついたものの、社名が入っていないのは「?」という感想でした。しかし、上中央に八号地貯木場の表記はあったので、そういえば記事があったな‥‥と本棚から「運河と閘門」を取り出してひも解いてみると、ありました。「船見閘門」という項目です。
●「運河と閘門」の記事によると、ストーニーゲート、径間7m、閘室長約61m、閘室幅約16m、昭和2(1927)年竣工。
ゲート配置は点対称とあるので、同じ名古屋港にある「飛島木場の閘門…5」で紹介したものと、同様の仕様で造られた閘室なのでしょう。八号地貯木場は昭和43(1968)年廃止、貯木場西側と北側に2基あった閘門のうち、西側の八号地第一閘門のゲート1基のみが保存されたそう。
●絵葉書のものが、第一・第二閘門どちらかは判別できません。しかしGoogleストリートビューで現存の第一閘門ゲートの片割れを東側から見たかぎりでは、銘板や梁の形状、側面のはしごや堰柱など構造も寸分の違いがないように思えます。
まあ、すべてのゲートが全く同じ形という可能性もあり、確かなことは申せませんが、もし現存のゲートであれば、貯木場側から撮ったものということになるでしょう。
●さて、表面に記載がなく気になるメーカー名です。梁の正面に掲げられた、アーチ状に抜いた瀟洒な銘板を拡大してみると、どうやら「山本工務所」と読めるように思えました。山本工務所なら、「名古屋港跳上橋」(Wikipedia)に代表される可動橋の第一人者、山本卯太郎が立ち上げたメーカーで間違いありません。
「船見閘門」(名古屋市)にも、設計は「名古屋港跳上橋と同じ山本卯太郎」とあり、有名な技術者の手によるゲート設備であることが、保存に力あったことをうかがわせるものがありました。
●Wikipedia「山本卯太郎」を読んでいたら、昭和4年5月、山本工務所の本社機能を、本宅の東京芝公園から大阪の此花区春日出町に移した、とありました。とすると、この絵葉書はその告知とともに、施工した水門設備の宣伝も兼ねて配布したものかもしれません。
堰柱右側基部に立つ、背広にカンカン帽の人物は、もしかしたら山本卯太郎本人なのかも‥‥。閘門とともにある「可動橋王」! 容貌魁偉(?)なゲートに惹かれて入手した一枚の写真から、楽しい妄想が広がってゆくのでありました。

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昭和戦前から前の写真絵葉書で、ローラーゲートやスライドゲートのように、扉体が堰柱の間を上下するタイプの水門を題材にしたものは、あまり入手できていません。こういうタイプがそもそも少なかった時代ということもありますが、堰のような大規模な施設にくらべると、地味な存在でいわゆる写真映えがせず、絵葉書の題材としていま一つと見られたのでしょうか。単にご縁がないだけかもしれませんが。

●新釧路川取入口岩保木水門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●装飾のない、この時代としては現代的な風貌の2径間ゲート。Wikipedia「岩保木水門」によると、岩保木は「いわぼっき」と読み、昭和6(1931)年8月の竣工。釧路湿原の端部に位置する、新旧の河道の境界に設けられた水門設備なのだそう。
写真を観察すると、堰柱手前側面に鉄筋が突き出しているなど、竣工間近ながら残工事もあることがうかがえますね。巻上機周りはむき出しで、人力操作のクランクが目を引きますが、これは上屋が未施工だったためで、ウェブ上に発表された現状の写真には、木造の巻上機室が見られます。
●正確な各部の寸法やゲート型式など、諸元については資料がないので残念ながらわかりませんが、木造巻上機室の造作が魅力的だからでしょう、地元の方々からも近代遺構として愛されているように見受けられました。

●名古屋港第八號地貯木塲ニ設置セル閘門ノ光景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●チョコンと載っかった小屋のような巻上機室に、角のように突き出すラック、そのラックも扉体とイコライザー様の金具で結合されているという、強烈かつ変わり種の外観に一目ぼれして、もう反射的に購入したもの。
右上に営業所、出張所の案内があることから、このゲートを建造したメーカーの宣伝物であることは察しがついたものの、社名が入っていないのは「?」という感想でした。しかし、上中央に八号地貯木場の表記はあったので、そういえば記事があったな‥‥と本棚から「運河と閘門」を取り出してひも解いてみると、ありました。「船見閘門」という項目です。
●「運河と閘門」の記事によると、ストーニーゲート、径間7m、閘室長約61m、閘室幅約16m、昭和2(1927)年竣工。
ゲート配置は点対称とあるので、同じ名古屋港にある「飛島木場の閘門…5」で紹介したものと、同様の仕様で造られた閘室なのでしょう。八号地貯木場は昭和43(1968)年廃止、貯木場西側と北側に2基あった閘門のうち、西側の八号地第一閘門のゲート1基のみが保存されたそう。
●絵葉書のものが、第一・第二閘門どちらかは判別できません。しかしGoogleストリートビューで現存の第一閘門ゲートの片割れを東側から見たかぎりでは、銘板や梁の形状、側面のはしごや堰柱など構造も寸分の違いがないように思えます。
まあ、すべてのゲートが全く同じ形という可能性もあり、確かなことは申せませんが、もし現存のゲートであれば、貯木場側から撮ったものということになるでしょう。
●さて、表面に記載がなく気になるメーカー名です。梁の正面に掲げられた、アーチ状に抜いた瀟洒な銘板を拡大してみると、どうやら「山本工務所」と読めるように思えました。山本工務所なら、「名古屋港跳上橋」(Wikipedia)に代表される可動橋の第一人者、山本卯太郎が立ち上げたメーカーで間違いありません。
「船見閘門」(名古屋市)にも、設計は「名古屋港跳上橋と同じ山本卯太郎」とあり、有名な技術者の手によるゲート設備であることが、保存に力あったことをうかがわせるものがありました。
●Wikipedia「山本卯太郎」を読んでいたら、昭和4年5月、山本工務所の本社機能を、本宅の東京芝公園から大阪の此花区春日出町に移した、とありました。とすると、この絵葉書はその告知とともに、施工した水門設備の宣伝も兼ねて配布したものかもしれません。
堰柱右側基部に立つ、背広にカンカン帽の人物は、もしかしたら山本卯太郎本人なのかも‥‥。閘門とともにある「可動橋王」! 容貌魁偉(?)なゲートに惹かれて入手した一枚の写真から、楽しい妄想が広がってゆくのでありました。

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