旧4区の絵葉書にも涙したい

207061.jpgもう5年前になりますが、「深川区の絵葉書に涙する」で、旧深川区の地図絵葉書を紹介しました。その折にも触れたように、同時に入手していたシリーズものの地図絵葉書を並べて、悦に入ってみたいと思います。

シリーズは旧市域の15区がありましたが、何分可航水路バカのこととて、選んだのは堀割や河川が多い、大川流域の4区。前回も触れたとおり、発行年代は大正初めごろと推定、発行所は中村商店です。
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富岩運河の絵葉書に…

富岩運河(関連記事はタグ『富岩運河』で表示)を題材にした昔の絵葉書に、一つ気になったところがあったのでご紹介します。

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富山新風景 岩瀬港に通ずる富岩運河
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


現在の環水公園、船溜に至る終端部の屈曲から、北の直線区間を望んだ写真。白く反射するコンクリートの法面、乱れなく一直線に走る水際のラインに、昭和9年の竣工からまだ日が浅い、清新さを感じさせます。

少し風の強い日に撮影されたのでしょう、水面は波立っており、船影のない水路の広大さが強調されていますね。左下には別枠で、東岩瀬港の岸壁に接岸する、本船の姿も収められています。

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前回訪問時、27年6月20日に撮ったものから、絵葉書と近い角度の写真を探してみました。こちらの方が目線が低いですが、現在は左手にレストランが建っており、テラスも大きく前進して設けられているので、同一視点で運河を望むことはできないでしょう。

こうして比較してみると、橋が新設されたこと、また両岸からテラスが張り出し、木も植えられて公園化されたたことで、運河が実際以上に狭まって見えますね。工業地帯造成のインフラから、公園地に潤いを与える水辺へと、80余年を経ての変貌ぶりが実感できる角度といえます。

‥‥で、気になったところというのはですね(ためんなと)。イヤ、みなまでいわずとも、もう先刻ご承知と思いますが。

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右下にほんの少しですが、牛島閘門の扉体が写っていた!

復元された今の姿でない、原形、現役時を目にするのは初めてです。後扉室の扉体、しかも片割れのさらに上半分だけではあるものの、ほんのひとかけらでも当時の様子に触れられるのは、閘門バカにとって慶事であります。

何より先に目線がちゅ~と吸い寄せられたのは、扉体の開閉設備が、たった1本の丸棒であること! 

イヤ、人力で済ますにしたって、カウンターウェイトを兼ねたレバーを、軸とは反対方向へ扉体の延長線上に伸ばすとか、もうちょっと簡単かつスマートな方法が、他にあるような気がするのですが。

国内ではロッドに、車地やラックなどを組み合わせ押し引きさせた例が多かった(『北上運河閘門めぐり…7』参照)ので、それを極限まで省いたのが、この形ということなのかしら? マイタゲートの開閉法で、私が見たかぎり最もチープで、それがゆえに珍しく、惹かれるものがありました!

わずかとはえ、ディテールも検分してみましょう。特徴あるランボードの手すり、現在は帯材に穴を開けて、丸棒を通してから輪にしているつくりですが、これは原形をなぞったようですね。排水用スライドゲートの操作把手は、頭がT字形をしているのがわかるものの、単に上下させていたのか、スピンドルを回していたのかはわかりません。

開閉用の棒、扉体との接合部はどうなっているのでしょう。ボールジョイントなんて気の利いたものはなかったでしょうから、見たところ穴を開けた帯材を立ち上げて、棒の先端には金具で輪を作り、ルーズに繋げていただけのように思われます。

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19年8月8日に撮った、牛島閘門後扉室。閘室は当時からのものを、大きな改修をせず流用したようですから、絵葉書と位置は変わりません。ただ、テラスが大きく前進し、おまけに橋も架けられたので、水際はすでに遠く、ずいぶん雰囲気は異なります。

しかし、こうして絵葉書の写真で、竣工間もないころを眺めた後だと、復元に当たってオール電動化したことが、なおさら気になってきます。復元当初は、鼬川への定期航路立ち上げが計画にあって、ためにモーターライズが必須になったのかしら。

イベント的な通航も絶えてなく、静態保存に限りなく近づいている現状では、ハテ? と首をひねるのが正直なところ。むしろ人力操作の方が、原形を忠実にという筋も立ち、しかも管理がぐっと楽になり、また通航体験としても、全国的に希少なやり方が、昔のまま保存されているということも手伝い、充実したものになったように思えます。

まあ、扉体を押し引きする人のことを考えると、むしろ大変だとは思いますが‥‥。勝手なことをいい散らかして申しわけありません。以上、夏の夜の閘門バカ妄想でありました。

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横利根閘門の外輪川蒸気二題

横利根閘門の絵葉書六題」でも紹介したように、横利根閘門は水郷の名所として、絵葉書の題材にもよく取り上げられ、ために通航シーンも数多く残されています。今回はその中から、外輪川蒸気船の姿をとらえた絵葉書2枚を眺めてみましょう。

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潮來名所 利根川水門口
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


利根川方から、閘室に進入しつつある川蒸気。水線付近、かすかに見える船首波は低く、減速している様子が見てとれます。煙突の白線は1本なので、通運丸船隊の1隻ですね。

左上、法面上の植木は支え木こそ見えないものの、枝も伸びていないことから、横利根閘門が大正10年に竣工して、まださほど時を経ていないころでしょう。

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川蒸気ファンとしては、シャッターを下ろすのがいかにも早すぎたなあ、あと10秒でも遅ければ‥‥といいたくなるもどかしい一枚ではあります。拡大して眺めてみましょう。

ううん、ピント自体が甘い上、印刷の加減か絵柄もツブレ気味なので、拡大しても読み取れるディテールは限られますね。操舵室正面の窓3つと、出入口の扉は開放されていること、煙突の周りには若干の積荷らしいものと、2名ほど人影が見えること、くらいでしょうか。

あと、外輪カバーがトップから大きく盛り上がり、幅もずいぶん広く、はみ出したようなあたりも目を引きますね。「続・川蒸気のイメージを求めて」で紹介した、「銚子名所 利根川の桟橋」に写っている船体によく似ています。ディテールから特定ができればよいのですが。

ちなみに通運丸を名乗った外輪船で、最末期まで残ったものは以下のとおりでした。

第二号、第五号、第六号、第八号、第二十九号、第三十三号、第三十五号の7隻。これらは東京通運の所有で、昭和11年末まで船名録に記載されていたのこと(『川の上の近代』より)。トン数は49~83tと比較的大型で、明治25年から36年と、利根川航路がまだ意気盛んだったころに建造されたもの。写真の船はさて、このうちの何号だったのでしょう?

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(佐原名所) 佐原沖の關門
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


2枚目のこれは、1枚目のもどかしさを忘れさせるような、鮮明かつほどよい距離から撮影されたもの。川蒸気を主な題材とした写真の中でも、出色の一枚といって、いい過ぎでないものではないでしょうか!

船尾から伸ばされた竿(ボートフック?)、船首付近を歩く船員の姿、そこかしこに積み上げられた各種の積荷と、看取できるディテール一つ一つが生き生きとした情景を演出していて、川汽船の現役時代を濃厚に髣髴させてくれます。ちなみに方向は1枚目とは反対の、横利根川から利根川に向かう便を写したもので、煙突の白線は3本、銚子丸船隊ですね。

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これも拡大して堪能してみましょう。まずは船首付近から。操舵室周り、出入りも難しくなりそうなくらい、所狭しと積まれているのは、醤油か酒の樽みたいですね。霞ケ浦各所や潮来からの便だとすれば、中身が入ったものでなく、佐原などの醸造所に還送する空き樽でしょうか。

しかし、船首周りや手すりの構造、屋根外縁のガンネル(?)の段差、客室からぐっと絞った操舵室の幅など、細部が鮮明に写っていて嬉しくなります。よく見ると、右端の窓から身を乗り出している人がいますね。

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煙突から外輪にかけて。煙突の三本の白線が巻かれた部分、少し太くなっているように見えます。塗装でなく、帯材など別パーツを巻いて表現したのかもしれません。白線の上あたりから3~4本のリギンが甲板に張られていて、煙突を支えているのがわかります。

ツブレ気味で分かりにくいですが、煙突の前に2人座っているのと、外輪カバー手前には腹ばいに寝そべっている人も! その後ろにはたくさんの竿と、外輪カバー上の1本は丁字形の金具らしきものが先端にあることから、ボートフックと思われます。いや~、ここまで生々しく判別できるなんて、実に楽しい写真じゃないですか! これを撮った写真師に、お礼をいいたくなるほどです。

煙突の後ろには、これまたうず高く荷物が積まれています。手前は四角く結束したもの、後ろは円筒形の俵積みにしたもの。あまり重いものは高所に上げないでしょうから、かさ高で軽い荷物でしょう。

昭和に入っても、河川物流は運賃の低廉さから高瀬舟が活躍しており、船賃が高くスペースも限られる川蒸気で運ぶものは、荷がさの少ない小荷物レベルのものか、足の速い生鮮食品など、急ぎのものがせいぜいだったことは容易に想像できます。ちなみに銚子丸船隊、昭和14年の船名録では第一~第七の7隻が確認でき、71tから84tの外輪船だったとのこと(『水郷汽船史』より)。

さて、横利根閘門がレンガ造りということもあり、大時代な外輪川蒸気といかにもしっくりくるものがありますが、よく考えてみると、閘門が竣工した大正10年って、川蒸気の世界から見ればすでに往時の勢いを失った、晩年といってもいいころ。活躍の時期は重なっていても、決して全盛期を共有した「同時代人」というわけではないのです。

してみれば、川蒸気が輝いていたころの川景色とは、一見江戸時代とさして変わらないような、近代構造物の乏しい、浅瀬や急流がところどころに残された、河相も厳しい情景だったと思って間違いないのでしょう。関東の川にも閘門が続々と現れ、安全な通航が担保されつつあった大正末~昭和初期、同時に水運のたそがれが始まったとは、何とも皮肉としかいいようがありません。

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タグ : 通運丸 銚子丸 川蒸気船 横利根川 横利根閘門 閘門 絵葉書・古写真

戦前の中川運河をしのんで

(『中川口閘門…5』のつづき)

206076.jpg中川運河と、中川口閘門を題材にした史料がいくつか手元にあり、折りに触れて眺めては「いつか訪ねたいものだ」と想いを募らせていたので、今回願いがかなって嬉しさもひとしおです。

というわけで、供用開始から日が浅かったころの様子がうかがえる絵葉書と、企業誘致のリーフレットを掲げて、悦に入らせていただきます。竣工以来、大いに宣伝に努めた名古屋市の力の入れようと、新規開鑿の艀船運河としては、国内において未曾有の規模だった中川運河の、輝かしい時代を垣間見てみましょう。

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タグ : 中川運河 中川口閘門 閘門 絵葉書・古写真

水浜電車と涸沼川航路

前回の文末で触れたとおり、鉄道会社が運航した内水航路つながりということで、水浜電車(後の茨城交通水浜線)の連絡汽船について、ちょっと触れてみたいと思います。

思えば、那珂湊・大洗周辺は「那珂川にも走っていた川蒸気」、「大貫運河跡を訪ねて」、「勘十郎堀…1」でも紹介したように、内水航路史に関心がある向きには見逃せない土地柄でもあります。江戸以来の廻船航路の寄港地でもあり、河川物流の要衝でもあった当地が、かつて誇っていた実力を物語るように感じられて、大いに惹かれるものがありますね。

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水濱電車及連絡汽船
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


この絵葉書を入手したのは、もうずいぶん前になります。写真自体は多く出回っていたようで、過去に何度か雑誌や本で目にしたことがあるため、「川舟である」こと以外は特に感じ入ることもなくファイルにしまって、長い間そのままになっていました。

下で改めて触れますが、船が浮いている川は涸沼~那珂川河口を流れる涸沼川で、電車が走る飯桁橋は、平戸~磯浜停留所間に架けられた橋梁です。

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船のみトリミングして拡大。船尾に機械室と操舵コンソールをまとめ、船首側を客室としたスタイルで、内燃機関と見て間違いないでしょう。船尾水面付近に舵頭が見えていますが、甲板上に舵柄がないことから、操舵索かギヤで連結した舵輪式のようです。

写真で見たかぎりでは行き足がなく、船上の人物もどことなく退屈しているような雰囲気なので、電車と船を一枚に収めたオフィシャルフォト撮影のため、電車が来るのを待っていたのかもしれません。下掲の「水濱電車」には、この一瞬後と思われる、電車がもっと近づいたカットが掲載されています。

201057.jpg水濱電車
―水戸から大洗・湊へ―
 
小野寺靖 著
並製本 226ページ
平成25年8月31日 第二刷


さて、この絵葉書をふたたび取り出してみたのは、この本と出合ってからです。高校教員をされていた著者の小野寺氏が、長年の成果をまとめられたいわば郷土史誌ですが、車輌から廃線跡ガイドまで情報量は豊富で、初版発行1年あまり(初版:24年1月20日)のうちに、重版がかけられたのもうなずけます。

連絡汽船についても相応のスペースが割かれており、ここでようやく、絵葉書の船の概要に触れることができたわけです。以下、気になったところを抜き書きさせていただきましょう。

水浜電車は大正11年12月28日、浜田~磯浜間の開通をもって開業したのですが、翌12年7月1日、水戸中心部に近い本一丁目~浜田間の延伸後、12月20日に平戸~湊(那珂湊)の間約2マイルに、涸沼川を活用した連絡汽船の運航を始めました。平戸はこの時点の終点である磯浜の一つ手前、涸沼川北岸に位置します。

汽船部門の規模は部員9名、機材が汽船3隻、曳船(客用艀のことか?)2隻で、「これらは湊汽船を買収したもの」だったそう。
なお平戸停留場から河畔の汽船発着場までは、約200m離れていたので、乗換の便をはかるため本線から分岐し、汽船乗場に直結した支線が造られました(Mapion地図でいうと発着場はこのあたり)。絵葉書にも写っている鉄道橋は、現涸沼橋の約120m上流に位置していたそうです。

また、「(平戸)発着場には、上流の涸沼に数ヵ所の発着場を持つ会社の汽船や、下流の湊町と結ぶ別会社の船も出入りし、涸沼と湊を結んでいた」ようだ、との記述もありました。
大正15年12月14日、磯浜から那珂川河口南岸に近い、祝町までの延伸区間が開通すると、連絡船はお役御免になり、3年余りの短い命を終えたそうです。

小野寺氏のご研究のおかげで、絵葉書の船のいわくは理解できたものの、すごく気になった下りが二つ!
「これらは湊汽船を買収したもの」
「発着場には、上流の涸沼に数ヵ所の発着場を持つ会社の汽船や、下流の湊町と結ぶ別会社の船も出入りし、涸沼と湊を結んでいた」

湊汽船って‥‥もしかして、「湊鉄道汽船部」のことかしら? あの、水戸~那珂湊航路を最後に運航していた?

那珂川にも走っていた川蒸気」ですでに触れましたが、念のため「常陽藝文」昭和60年8月号を開いてみると‥‥。
那珂川汽船から汽船事業を買収した湊鉄道(現在のひたちなか海浜鉄道湊線)は、大正12年、湊鉄道汽船部を廃止しています。これが那珂川における汽船定期航路の、実質的な終焉となったそう。

水浜電車の連絡汽船運航開始は、大正12年12月! これが本当だとすれば、那珂川の川蒸気の一部(おそらく運航要員も)が、ごっそり水浜電車へ移籍したことになるなあ‥‥。
湊鉄道と事前に協議して、部分開通前から譲渡の上汽船運航を企図していたのか、それともたまたま近場で入手できる出物があったので、泥縄式に汽船航路を仕立てることにしたのか。「水濱電車」にはそれ以上の記述はないのでわかりませんが、このタイミングの良さにはあれこれ妄想させられます。

もう一つ、平戸の発着場を他の船社、しかも複数の船社が利用していた件も、すんごく気になります。上流の涸沼行きはともかく、競合航路である下流域の便も発着していたというあたり、そんな賑わった時代があったのかと興味をそそられますが、本書の記述はこれだけです。機会があったら、また調べてみるとしましょう。
ちなみに「常陽藝文」の記事によれば、那珂川汽船が運航していた時代の涸沼航路は、明治36年に湊~大貫間運航開始、同43年廃止されたとのことです。

いや、しかし思った以上に面白いですね、那珂湊・大洗周辺の河川航路は! 豊かな内水が、小さな汽船たちで賑わったころを思うと、一枚の絵葉書から妄想もむくむく広がるものがあります。宿題も一つできたことだし、調べものがてら、また訪ねてみたいものです。

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タグ : 絵葉書・古写真 涸沼川