水浜電車と涸沼川航路

前回の文末で触れたとおり、鉄道会社が運航した内水航路つながりということで、水浜電車(後の茨城交通水浜線)の連絡汽船について、ちょっと触れてみたいと思います。

思えば、那珂湊・大洗周辺は「那珂川にも走っていた川蒸気」、「大貫運河跡を訪ねて」、「勘十郎堀…1」でも紹介したように、内水航路史に関心がある向きには見逃せない土地柄でもあります。江戸以来の廻船航路の寄港地でもあり、河川物流の要衝でもあった当地が、かつて誇っていた実力を物語るように感じられて、大いに惹かれるものがありますね。

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水濱電車及連絡汽船
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


この絵葉書を入手したのは、もうずいぶん前になります。写真自体は多く出回っていたようで、過去に何度か雑誌や本で目にしたことがあるため、「川舟である」こと以外は特に感じ入ることもなくファイルにしまって、長い間そのままになっていました。

下で改めて触れますが、船が浮いている川は涸沼~那珂川河口を流れる涸沼川で、電車が走る飯桁橋は、平戸~磯浜停留所間に架けられた橋梁です。

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船のみトリミングして拡大。船尾に機械室と操舵コンソールをまとめ、船首側を客室としたスタイルで、内燃機関と見て間違いないでしょう。船尾水面付近に舵頭が見えていますが、甲板上に舵柄がないことから、操舵索かギヤで連結した舵輪式のようです。

写真で見たかぎりでは行き足がなく、船上の人物もどことなく退屈しているような雰囲気なので、電車と船を一枚に収めたオフィシャルフォト撮影のため、電車が来るのを待っていたのかもしれません。下掲の「水濱電車」には、この一瞬後と思われる、電車がもっと近づいたカットが掲載されています。

201057.jpg水濱電車
―水戸から大洗・湊へ―
 
小野寺靖 著
並製本 226ページ
平成25年8月31日 第二刷


さて、この絵葉書をふたたび取り出してみたのは、この本と出合ってからです。高校教員をされていた著者の小野寺氏が、長年の成果をまとめられたいわば郷土史誌ですが、車輌から廃線跡ガイドまで情報量は豊富で、初版発行1年あまり(初版:24年1月20日)のうちに、重版がかけられたのもうなずけます。

連絡汽船についても相応のスペースが割かれており、ここでようやく、絵葉書の船の概要に触れることができたわけです。以下、気になったところを抜き書きさせていただきましょう。

水浜電車は大正11年12月28日、浜田~磯浜間の開通をもって開業したのですが、翌12年7月1日、水戸中心部に近い本一丁目~浜田間の延伸後、12月20日に平戸~湊(那珂湊)の間約2マイルに、涸沼川を活用した連絡汽船の運航を始めました。平戸はこの時点の終点である磯浜の一つ手前、涸沼川北岸に位置します。

汽船部門の規模は部員9名、機材が汽船3隻、曳船(客用艀のことか?)2隻で、「これらは湊汽船を買収したもの」だったそう。
なお平戸停留場から河畔の汽船発着場までは、約200m離れていたので、乗換の便をはかるため本線から分岐し、汽船乗場に直結した支線が造られました(Mapion地図でいうと発着場はこのあたり)。絵葉書にも写っている鉄道橋は、現涸沼橋の約120m上流に位置していたそうです。

また、「(平戸)発着場には、上流の涸沼に数ヵ所の発着場を持つ会社の汽船や、下流の湊町と結ぶ別会社の船も出入りし、涸沼と湊を結んでいた」ようだ、との記述もありました。
大正15年12月14日、磯浜から那珂川河口南岸に近い、祝町までの延伸区間が開通すると、連絡船はお役御免になり、3年余りの短い命を終えたそうです。

小野寺氏のご研究のおかげで、絵葉書の船のいわくは理解できたものの、すごく気になった下りが二つ!
「これらは湊汽船を買収したもの」
「発着場には、上流の涸沼に数ヵ所の発着場を持つ会社の汽船や、下流の湊町と結ぶ別会社の船も出入りし、涸沼と湊を結んでいた」

湊汽船って‥‥もしかして、「湊鉄道汽船部」のことかしら? あの、水戸~那珂湊航路を最後に運航していた?

那珂川にも走っていた川蒸気」ですでに触れましたが、念のため「常陽藝文」昭和60年8月号を開いてみると‥‥。
那珂川汽船から汽船事業を買収した湊鉄道(現在のひたちなか海浜鉄道湊線)は、大正12年、湊鉄道汽船部を廃止しています。これが那珂川における汽船定期航路の、実質的な終焉となったそう。

水浜電車の連絡汽船運航開始は、大正12年12月! これが本当だとすれば、那珂川の川蒸気の一部(おそらく運航要員も)が、ごっそり水浜電車へ移籍したことになるなあ‥‥。
湊鉄道と事前に協議して、部分開通前から譲渡の上汽船運航を企図していたのか、それともたまたま近場で入手できる出物があったので、泥縄式に汽船航路を仕立てることにしたのか。「水濱電車」にはそれ以上の記述はないのでわかりませんが、このタイミングの良さにはあれこれ妄想させられます。

もう一つ、平戸の発着場を他の船社、しかも複数の船社が利用していた件も、すんごく気になります。上流の涸沼行きはともかく、競合航路である下流域の便も発着していたというあたり、そんな賑わった時代があったのかと興味をそそられますが、本書の記述はこれだけです。機会があったら、また調べてみるとしましょう。
ちなみに「常陽藝文」の記事によれば、那珂川汽船が運航していた時代の涸沼航路は、明治36年に湊~大貫間運航開始、同43年廃止されたとのことです。

いや、しかし思った以上に面白いですね、那珂湊・大洗周辺の河川航路は! 豊かな内水が、小さな汽船たちで賑わったころを思うと、一枚の絵葉書から妄想もむくむく広がるものがあります。宿題も一つできたことだし、調べものがてら、また訪ねてみたいものです。

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タグ : 絵葉書・古写真 涸沼川

大貫運河跡を訪ねて

(『大洗磯前神社にて』のつづき)

117026.jpg大洗磯前神社に参拝した後は、鹿島臨海鉄道大洗駅にほど近い、江戸時代に造られた水路・大貫運河の跡を訪ねてみました。

大貫運河は、勘十郎堀ともいわれ、涸沼~巴川間に開鑿されながらも、実用に堪えず短期間で廃止された同名の運河(別名紅葉運河、過去ログ『勘十郎堀…1』『勘十郎堀…2』参照)と同じく、経綸家の松波勘十郎によって造られた運河でした。かつては涸沼川の中流部から、大洗の海浜に至る約1kmの全長がありましたが、現在はほとんどが埋め立てられ、わずかな水面を残すのみとなっています。

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タグ : 大貫運河 勘十郎堀 涸沼川