水運時代のフネブネぎっしり写真

鉄道の急速な発達によって、長距離水運は廃れながらも、市内や近郊とを結ぶ近距離の水運は、むしろ最盛期を迎えていたといってよい明治末~昭和初期の水路の賑わいは、今に残された各種の統計によっても明らかではあります。

しかし、やはり水運バカとして、数字の上などでなく、映像でその殷賑ぶりを味わってみたい気持ちが強くあり、例によって古写真や絵葉書を漁り続けていたら、幸いにして、その賑わいが聞こえてくるような絵葉書に、何枚か出会うことができました。
いずれもフネブネが舷をこすらんばかりに行き交い、また岸にもやう興奮(私にとってね)の写真、今回は4枚を紹介させていただきます。


明治37(1904)年竣工、中央径間は亀島川の南高橋に流用されたことで知られる先代両国橋と、大正9(1920)年竣工の「大鉄傘」・旧両国国技館をバックを写されたこの写真は、私にとってもなじみ深い神田川河口、おそらく柳橋の上から見た情景。

震災前の撮影のようですが、旧両国橋は震災での被害はなく、旧国技館も焼けたものの震災翌年に復旧していますので、あるいは昭和に入ってからの撮影かもしれません。

写真に写っているフネブネは、岸にもやっているものも含めて合計19隻、注目すべきは、実に一隻も動力船がなく、すべて和船か同系統の船だということ。潮時よろしく、満潮時に流速が緩むのを待って、いっせいに神田川とその派川に向かわんとするシーンといったところでしょうか。

左手前と中央の、こちらに向かってくる船は、船首部にセイジ(居住区)を備えており、数日にわたる長距離航行をする船か、もしくは船頭一家が居住しながら移動する船であることがわかります。左端、隅田川に出てゆくの船の、人の背を越えるほどうず高く積まれた満載ぶりに、当時の荷役がしのばれますね。

ちなみに、大正10(1921)年3月5・6日の7時~17時に、東京市によって行われた通船調査によると、神田川河口の通船数は5日270隻、6日355隻を数えたとのこと。

隅田川に面した派川の河口では、小名木川・萬年橋の635/539隻、箱崎川支川の607/441隻に次いで多く、神田川が物流路として、いかに高度利用されていたかが見て取れます。この写真はその輻輳ぶりの一端を目の当たりにできる、貴重なシーンに思えたものです。


これは見事な人着写真で、豪壮な洋館の美しさが目に沁みますが、惹かれたのは洋館ではなく、もちろん手前の水路にぎっしり詰まるフネブネ。キャプションは「逓信省」とあります。

手元に資料がないので、Wikipediaの助けを借りると、逓信省庁舎は関東大震災まで京橋区木挽町、現在の中央区銀座八丁目(Mapion地図)にあり、初代のレンガ造り庁舎が明治40(1907)年に火災で焼失後、同じくレンガ造り3階建ての新庁舎が明治42(1909)年に竣工したそうですから、そのどちらかでしょう。

現在は埋め立てられてしまいましたが、ここはかつて江戸以来の堀割、汐留川と築地川が交わったデルタ状の土地。今の海岸通りを汐留川が曲流しており、首都高都心環状線は築地川を利用して造られたものです。さて、写真の庁舎がどちらに面していたか、資料がないので判じかねるのですが、岸の石垣がなんとなく緩い曲面を描いているように見えたことから、汐留川に面していたと仮定しましょう(ご教示を乞う)。

汐留川は、現在の東京高速線のルートそのものを流路として、土橋で外濠に接続、途中から三十間堀川も分岐していた、港湾部と都心を結ぶ重要な水路でしたから、この「大渋滞」もむべなるかなといったところ。空の荷馬車や大八車が数台見られるのみの、陸上の閑散ぶりとの落差がもの凄い(笑)のも気に入っている点です。

この写真も潮時がよろしいのか、中央の2隻以外は、みな画面左に向かい竿をついて航行中であるのがわかります。左手前、こちらに船首を向けている荷足は、胴の間に角材のようなものを斜めに積んでいますね。
しかしこの渋滞では船頭さんもイライラさせられて、さぞかし罵声でかまびすしかったことだろうと、勝手に想像しています。


こちらは震災後、日本橋から築地に移転して、恐らく間もないころの魚河岸の水揚げ風景。現在の築地市場は昭和10(1935)年竣工、陸上には大型トラックが何台か見え、手前の船も発動機船であることから、昭和戦前も二桁に入ったころとみて間違いありますまい。

しかし、荷ほこりにまみれた喧騒が聞こえてくるような、「河岸の中の河岸」らしい写真ですね。手前中央の発動機船は、近場の浦々から魚を運んできたのでしょうか、ラットやひょろ長い排気管といったディテールもうかがえて楽しくなります。

小型舶用エンジンは、戦後は大抵、数馬力・2サイクルの電気着火式ガソリン機関で、逆転機構なしのクラッチのみ。一時期舶用エンジンの代名詞として知られた焼玉エンジンは、買出し船など大型船向けだったとのことですが、このころはどうだったのでしょうか。


最後は水運ではありませんが、もう水路に船ぎっしりというだけでグッとくるものがあって…。海苔船ぎっしりの近郊漁村風景です。
これも「海苔を採る舟」とある以外、特にキャプションはありませんから、大森なのか羽田なのか、詳しいところはわかりません。しかし、遠くにガスタンクの枠が見えることから、おおむねの場所は特定できそうな気がするのですが。

母船たる発動機船の海苔親船、そのすき間にもやう可憐なベカたち。陸上には海苔ヒビとして利用する粗朶がうず高く積まれていることからも、網ヒビ普及以前の時代、少なくとも戦前であることを感じさせます。

このあたりは以前紹介した、大田区立郷土博物館で発売されている資料に詳しいのですが、現在湾岸の埋立地となっている水域は、航路以外ほぼ海苔ヒビで占められていたといってもよい一大海苔養殖地帯でしたから、戦後しばらくまではこのような水路風景が、都内でもごく当たり前に見られたことでしょう。

【参考文献】
近代庶民生活誌12 農民・漁民・水上生活者(南 博 編)三一書房
浦安のベカ舟 浦安市教育委員会

にほんブログ村 マリンスポーツブログ ボートへ
にほんブログ村

タグ : 神田川 隅田川 汐留川 和船 絵葉書・古写真

汐留川に昔、可航暗渠があった?

去る7月10日の、江東ドボクマッピング・水路ツアーに参加させていただいたときのこと。参加者の方から「(水道橋・お茶の水分水路のように)ボートで通れる暗渠って、他にはないのですか?」というご質問をいただきました。

話の流れから、私の艇と同クラスの艇で、しかも都内の水路限定という意味でお話ししてよいかな、と思ったので、「おそらく水道橋・お茶の水分水路の他にはないと思います」とお答えしましたが、さらに小型の機付き和船やインフレータブル、ローボートにカヤックと、小さい艇種を選ぶなら、通り抜けられないにせよ、江戸川橋分水路も範疇に入るでしょう。
カヤックやカヌーで通れる暗渠なら、私が知らないだけで、それこそ、全国いたるところにあるに違いありません。

帰宅してから、ひとつ思い出したことがありました。昔読んだ本の中で、都内の、カヌーで通れる暗渠のことを書いた下りがあったなあ…。

探してみたら、ありました! 「路地裏の文明開化 新橋ロマン物語」(竹内宏著・実業之日本社・平成5年)という、明治から戦後に至るまでの、新橋を中心にした界隈の変遷を描いた本です。

気になる部分を抜き書きしてみましょう。「水の都の消滅」という一節、界隈を縦横に走っていた掘割群が、次々と埋め立てられ、また首都高に造り替えられてゆくことを書いたくだりですが、その中に、

また、溜池から第一ホテルの地下にかけては、雨水等を流すための巨大な地下水道があり、それは運河とつながっていた。子どもたちは、カヌーに乗って、地下水道の中を遊んでいたという。

とあったのです。他に関連する記述はなく、「えっ、それだけ?」と、物足りない感じもしましたが、これは地元にながく住んだ方でなくては、出てこない話であることを思うと、少ないとはいえ貴重な証言に思えたものです。

溜池から出ていた水路といえば、汐留川の旧流路に他なりません。おおむね現在の外堀通りの北側を流れ、線路をくぐった後は東京高速道路のカーブ区間に沿い、浜離宮の北側角で現存の流路に接続していました。Googleの航空写真でいうと、このあたりですね。

記事の中では、暗渠があった年代については、特に触れられてはいませんでしたが、首都高ができるまでの、水路群や橋の様子を描写していた前後の文脈から判断すると、昭和戦前から20年代といったところでしょうか。

オールで漕ぐローボートを貸す貸しボート屋が、都心の堀割や川にも結構な数の店を開いていたというこの時代、カヌーというのも少し妙な感じがしますが、当時「貸しカヌー屋」なるものがあったのか、またはベカやローボートをカヌーと間違えたのか、そのあたりはわかりません。
今でも、子どもたちが探検した当時の暗渠が、そのまま下水として使われているのでしょうか。

ともあれ、機会があったら、水路跡をたどったり、文献をあさって調べてみたくなりました。また、詳しいことをご存じの方がおられたら、ぜひご教示いただきたいものです。




(水道橋1号分水路呑口付近、22年9月19日撮影)

にほんブログ村 マリンスポーツブログ ボートへ
にほんブログ村

タグ : 汐留川 水道橋分水路 分水路 暗渠