水雷艇の写真を眺めていたら…
●絵葉書のアルバムを整理していたら、ずいぶん昔に入手した古写真が出てきました。もっともこれは絵葉書ではなく、銘入りの化粧台紙に貼った写真です。写真がまだ貴重だったころ、土産物店や写真館の販売用などとして、かつてはよく見られたやり方ではあります。
●私は昔の海軍艦艇の中でも、特に水雷艇が大好きで、この写真も中央に5隻ずらりと並んだ、水雷艇の姿に惹かれて購入したものです。旧海軍でも明治期に多くの水雷艇が輸入または国内建造され、日清・日露の戦役で大いに活躍したことはご存知のとおり。
前甲板の顕著なタートルバックが特に魅力で、細身の船型とあいまって独特の雰囲気を醸し出し、旧海軍の一部では「鰹節艇」のあだ名で呼ばれたという話も、うなずけるものがあります。

●Torpedohafen. Arthur Renard, Kiel 1893 108×167㎜
●さて、入手した当初は1893という年代と、「キール」の表記から、明治時代にドイツはキール軍港で撮影されたものであろう、というくらいの認識しかなかったのですが、今回改めて眺めてみて、いくつか気になったところが出てきたので、目の前の箱でわかる範囲で調べてみようと思ったのでした。何分ドイツ語やドイツ艦艇には縁遠いもので、間違っていたらごめんなさい。
●まず、台紙枠右端のタイトル「Torpedohafen」。直訳すると「水雷港」になってしまいますが、これは「水雷艇基地」くらいの解釈でよいのでしょうか(今気づいたけれど、右下にツブれた小蠅が‥‥)。
写真左下に焼きこまれたキャプションは1892年、台紙のそれは1893年で1年の違いがありますが、これは撮影年と発行年と考えていいでしょう。どちらにもある銘、「Arthur Renard(アーサー・ルナール?)」が、撮影者の名前だろうと見当をつけて検索したら、幸いにしてすぐにらしいサイトがヒットしました。ありがたやインターネッツ。
●「Cay Jacob Arthur Renard Photograf Kiel Klinke 355」
上記の人物紹介によると、フルネームはCay Jacob Arthur Renardで、生没年は1858~1934、写真と同じくキール出身。艦船を専門に撮っていた写真家だったようですね。詳しいところはその道の専門家にお任せしたいのですが、年代と出身地、被写体から、この写真はルナールさん撮影だ、と脳内で一人決めしたのでした。
とまあ、自分なりに納得がいったところで、改めて仔細に味わってみることに。

●メザシにもやう水雷艇群のアップ。こうした十羽一絡げな繋留法も、いかにも小艦艇といった雰囲気が横溢して、実によいものじゃないですか。
「鰹節」の名のもとになったタートルバックとともに、後の潜水艇みたいな密閉式の司令塔は、つねに波をかぶる水雷艇ならではの外観で、個人的に惹かれるポイント。左から2番目の艇は、後甲板の発射管を旋回させているのがわかります。4隻のマスト、それぞれヤードの形が違うのが気になりました。無電の導入前であれば、セマフォア(腕木信号器)とも思えたのですが、いかがでしょうか。

●水雷艇だけでなく、左奥にもやう大型艦も、これまた魅力的なディテールですね。何しろ並列4本煙突ときていて、兵装はうかがえませんが、パッと見旧清国海軍の「定遠」型甲鉄砲塔艦を、思い起こさせる外観です。そういえば「定遠」も、ドイツで建造されたのでしたね。
これも検索したら、ありがたいことに「ザクセン級装甲艦」(wikipediaより)がヒット。ファイティングトップ(?)とデリックを備えたマスト1本、4本並列煙突とくれば、まず間違いないでしょう。旧海軍の初代「扶桑」みたいな、甲鉄砲郭の角々に主砲を収めた艦だったんだ。いや~いいですねえ、この時代の鉄でよろったフネは。
‥‥さて、今回改めて眺めてみて、目線をひゅっと吸い寄せられたのが、右手前で絵柄が切れてしまっていたコレ!

●何だろうこの艇は。
●外観から、小型の水雷艇のようですが、上部構造物が明るい色で塗装されているのが妙ですね。司令塔‥‥らしいぬめっとした突出部の手前、低いブルワークで囲った凹みがあるのは、砲座でしょうか。何よりキセル形ベンチレーターはあるのに、煙突が見えないのも違和感があります。たまたま撮影時に、外してあっただけかもしれませんが。
いずれにせよ、潜水艇一歩手前のような、極限まで上部構造物のかさを抑えたそのフォルムに、軍艦らしくなさ(!)を感じて目を引かれたのでした。魚雷導入より前、棒の先に爆薬を仕込んだ、いわゆる外装水雷を備えていたころの水雷艇は、敵艦に肉薄するため、極端に低いスタイルを要求されたと聞いていますから、そのたぐいの生き残りかもしれません。
●ともあれ、水雷艇をはじめとした、この時代の軍艦艇には大いに惹かれるものがあり、あれこれ想像するのは楽しいものです。
また明治期の川蒸気船たちも、かようなフネブネと時を同じゅうして生まれ、彼らが引退した後も長きにわたり走り続けたことを考えると、軍艦艇と民間船の置かれた環境の違いもかいま見えて、改めて興味をそそられたことではありました。

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●私は昔の海軍艦艇の中でも、特に水雷艇が大好きで、この写真も中央に5隻ずらりと並んだ、水雷艇の姿に惹かれて購入したものです。旧海軍でも明治期に多くの水雷艇が輸入または国内建造され、日清・日露の戦役で大いに活躍したことはご存知のとおり。
前甲板の顕著なタートルバックが特に魅力で、細身の船型とあいまって独特の雰囲気を醸し出し、旧海軍の一部では「鰹節艇」のあだ名で呼ばれたという話も、うなずけるものがあります。

●Torpedohafen. Arthur Renard, Kiel 1893 108×167㎜
●さて、入手した当初は1893という年代と、「キール」の表記から、明治時代にドイツはキール軍港で撮影されたものであろう、というくらいの認識しかなかったのですが、今回改めて眺めてみて、いくつか気になったところが出てきたので、目の前の箱でわかる範囲で調べてみようと思ったのでした。何分ドイツ語やドイツ艦艇には縁遠いもので、間違っていたらごめんなさい。
●まず、台紙枠右端のタイトル「Torpedohafen」。直訳すると「水雷港」になってしまいますが、これは「水雷艇基地」くらいの解釈でよいのでしょうか(今気づいたけれど、右下にツブれた小蠅が‥‥)。
写真左下に焼きこまれたキャプションは1892年、台紙のそれは1893年で1年の違いがありますが、これは撮影年と発行年と考えていいでしょう。どちらにもある銘、「Arthur Renard(アーサー・ルナール?)」が、撮影者の名前だろうと見当をつけて検索したら、幸いにしてすぐにらしいサイトがヒットしました。ありがたやインターネッツ。
●「Cay Jacob Arthur Renard Photograf Kiel Klinke 355」
上記の人物紹介によると、フルネームはCay Jacob Arthur Renardで、生没年は1858~1934、写真と同じくキール出身。艦船を専門に撮っていた写真家だったようですね。詳しいところはその道の専門家にお任せしたいのですが、年代と出身地、被写体から、この写真はルナールさん撮影だ、と脳内で一人決めしたのでした。
とまあ、自分なりに納得がいったところで、改めて仔細に味わってみることに。

●メザシにもやう水雷艇群のアップ。こうした十羽一絡げな繋留法も、いかにも小艦艇といった雰囲気が横溢して、実によいものじゃないですか。
「鰹節」の名のもとになったタートルバックとともに、後の潜水艇みたいな密閉式の司令塔は、つねに波をかぶる水雷艇ならではの外観で、個人的に惹かれるポイント。左から2番目の艇は、後甲板の発射管を旋回させているのがわかります。4隻のマスト、それぞれヤードの形が違うのが気になりました。無電の導入前であれば、セマフォア(腕木信号器)とも思えたのですが、いかがでしょうか。

●水雷艇だけでなく、左奥にもやう大型艦も、これまた魅力的なディテールですね。何しろ並列4本煙突ときていて、兵装はうかがえませんが、パッと見旧清国海軍の「定遠」型甲鉄砲塔艦を、思い起こさせる外観です。そういえば「定遠」も、ドイツで建造されたのでしたね。
これも検索したら、ありがたいことに「ザクセン級装甲艦」(wikipediaより)がヒット。ファイティングトップ(?)とデリックを備えたマスト1本、4本並列煙突とくれば、まず間違いないでしょう。旧海軍の初代「扶桑」みたいな、甲鉄砲郭の角々に主砲を収めた艦だったんだ。いや~いいですねえ、この時代の鉄でよろったフネは。
‥‥さて、今回改めて眺めてみて、目線をひゅっと吸い寄せられたのが、右手前で絵柄が切れてしまっていたコレ!

●何だろうこの艇は。
●外観から、小型の水雷艇のようですが、上部構造物が明るい色で塗装されているのが妙ですね。司令塔‥‥らしいぬめっとした突出部の手前、低いブルワークで囲った凹みがあるのは、砲座でしょうか。何よりキセル形ベンチレーターはあるのに、煙突が見えないのも違和感があります。たまたま撮影時に、外してあっただけかもしれませんが。
いずれにせよ、潜水艇一歩手前のような、極限まで上部構造物のかさを抑えたそのフォルムに、軍艦らしくなさ(!)を感じて目を引かれたのでした。魚雷導入より前、棒の先に爆薬を仕込んだ、いわゆる外装水雷を備えていたころの水雷艇は、敵艦に肉薄するため、極端に低いスタイルを要求されたと聞いていますから、そのたぐいの生き残りかもしれません。
●ともあれ、水雷艇をはじめとした、この時代の軍艦艇には大いに惹かれるものがあり、あれこれ想像するのは楽しいものです。
また明治期の川蒸気船たちも、かようなフネブネと時を同じゅうして生まれ、彼らが引退した後も長きにわたり走り続けたことを考えると、軍艦艇と民間船の置かれた環境の違いもかいま見えて、改めて興味をそそられたことではありました。

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