水郷観光の華をしのんで
●久しぶりに水郷のお話とまいりましょう。過去にもたびたび触れてきましたが、下利根・霞ケ浦・北浦一帯に覇を唱え、関東の内水汽船時代に最後の輝きを見せた船社、水郷汽船。その花形として知られた2隻の鋼製ディーゼル船、「さつき丸」「あやめ丸」の姿に惹かれて入手したリーフレットと絵葉書、二葉を紹介させていただきます。

●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】
水郷汽船史 白戸貞夫 羽成裕子 編 筑波書林 昭和59年1月

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●水郷めぐり
190㎜×263㎜ 「昭和拾貮年九月八日」の印あり。裏面絵柄なし。
●4色の版を使った贅沢な水郷観光案内。その目に沁みるような鮮やかな色使いもさることながら、枠の赤版に白抜きで路線や名勝を配し、緑版では菖蒲をと、実に細やかな気配りを見せるデザインに、水郷観光の意気盛んな息吹が感じられて、よいものですね。
「さつき丸」の写真に目を移すと、光線の角度はバッチリ、わずかな追い風を受けているのか、マストトップに掲げられた社旗らしき旗が船首側にはためいて、最上甲板にも真新しい天幕がフルオーニング状態と、プロによるオフィシャルフォトであることがうかがえます。原版があれば、数ある「さつき丸」を写したものの中でも、最高クラスの仕上がりといって間違いはないでしょう。
●この手の印刷物は絵葉書同様、発行年代が漠然としか推測できないものですが、一見しただけで二つの材料が明示されていて、その点は大いに助かりました。
まず右下に天地逆ながら、「昭和拾貮年九月八日」の印が見えますね。これは発行日というより、配布された日を示すのでしょうか。もう一つは、本文左手「さつき丸就航」の文言「陽春四月より」云々の下り。本船の竣工は東京石川島で昭和6年10月とされており、その直近とすれば昭和7年4月より就航、ということになるのでしょうか? とすれば、本紙が発行されたのは昭和7年以降、以後、少なくとも昭和12年までは配布されていた、と見てよいかと思います。
●通運丸船隊などを擁していた東京通運が、鹿島参宮鉄道船舶部ほかを合併、水郷遊覧汽船を設立したのがの昭和6年11月。水郷汽船への改称は昭和7年8月だそうですから、社名変更の決まったころ、「さつき丸」の就航とタイミングを合わせて、気合の入った宣伝物を作り誘致に力こぶを入れた‥‥、といったストーリーが妄想されたものです。
明治初め以来、隻数こそあれスタイルには大きな変化のなかった、川蒸気船隊を主力としてきた水郷一帯の航路に、一足飛びに鋼製ディーゼル主機の大型船を二隻も投入したのですから、気合も入ろうというもの。水郷一帯の内水沿岸を、細々と綾なすように結んでいた実用航路から、観光航路の時代へ大きな変化を遂げつつあった瞬間のエッセンスを凝縮したような、そんな一葉といっていい過ぎではありません。

●水郷の女王 さつき丸 あやめ丸
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。裏面分割線に「水郷汽船株式會社發行」とあり
●もう一つは絵葉書で、「さつき丸」だけでなく「あやめ丸」も併載、新造鋼製ディーゼル船隊が揃い踏み。「水郷の女王」と自称(?)してしまうあたり、自信のほどがうかがえてそそられるものが。それぞれ「船内賣店あり・船室明朗清麗なり」、「船内食堂・賣店・ラヂヲ・其他設備完全・船室明朗清麗・日本間あり」と、設備の宣伝怠りありませんが、「さつき丸」に日本間があったのは興味を惹かれるものがあります。
船内か、あるいは水駅(船着場)で購入時に押印したのか、風景ゴム印が見えますね。こちらも年月日が記されているのはありがたいところ。「8.7.19」とあるので、昭和8年7月19日ということがわかります。
●ちなみに「あやめ丸」は95総t、昭和6年5月と、「さつき丸」(155総t)より少し早めの竣工。この2隻がいわば水郷汽船の看板となって、津宮、銚子ほか下利根各所から横利根川を経て、潮来、鹿島や息栖、土浦と、戦前の水郷観光時代を華やかに彩ったことが想われて、胸の熱くなるものがあります。
水郷汽船に関心を覚えられた向きは、以下の関連過去記事もご覧になってみてください。
・「参宮丸」船隊? の面影を拾う
・東京通運時代の河川航路図二題
・土浦再訪…2
・水郷案内にしのぶ航路とフネブネ
【参考文献】


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前川二閘門の変化…5
(『前川二閘門の変化…4』のつづき)
●前扉室ゲート越しに西、潮来市街方に伸びる前川の川面を眺めて。青空を映す静かな水面には、鴨たちが点々と浮かび、実にのどかな雰囲気。
いつか前川十二橋のコースで船頭組合に事前に交渉して、大洲閘門をくぐってみたいものと夢見てきましたが、どうも遅きに失したようですね。残念ですが、古豪極小閘門が稼働状態にあった川景色を、この目で眺められただけでもよしとしなければなりますまい。

●橋上南寄りから閘室、操作室を見下ろして。水位差が少ないこともあり、こうして見たかぎりでは、現役時とそう変わらない雰囲気。ここがセルフ操作に更新されず、旧来の有人運転式のまま残されたわけは、どのあたりにあったのでしょう。もちろん通航頻度の低さが、理由の一つとは思いますが。

●後扉室の向こうに伸びる河道に目をやると、南岸が新たに土盛りされ、低いながら堤防として強化されているように見えました。以前からこうだったかな? いずれにせよ、二つの閘門を含め、前川に大きな変化が訪れていることは感じられたものです。

●前扉室の前の護岸に、片足立ちでひょろ長く伸びて、魚を探す風情の鷺さんを一枚。いつもながら飄々とした表情で、周りの雰囲気まで可笑しみに包まれたような気分にさせてくれます。
●水郷を離れて、自宅へ帰る前にまず自艇に立ち寄り、カディのハッチ裏側、ラッチに下げる形であんば様のお札を奉安。手を合わせて、今年の水路行の安全をお願いしました。
これが正しいやり方なのかわかりませんが、十数年来この方法で奉って、大きな事故もないため、まずご機嫌を損ねるようなことはないものと思われます。
何より今年は、早々1日からお札の霊験を痛感させられたこともあり、やはり利根川高瀬舟の船頭や船主が崇敬したお社、あんば様のご加護あっての我が川ップネだと、敬意を新たにしたものでした。
(令和5年1月2日撮影)
(この項おわり)

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いつか前川十二橋のコースで船頭組合に事前に交渉して、大洲閘門をくぐってみたいものと夢見てきましたが、どうも遅きに失したようですね。残念ですが、古豪極小閘門が稼働状態にあった川景色を、この目で眺められただけでもよしとしなければなりますまい。

●橋上南寄りから閘室、操作室を見下ろして。水位差が少ないこともあり、こうして見たかぎりでは、現役時とそう変わらない雰囲気。ここがセルフ操作に更新されず、旧来の有人運転式のまま残されたわけは、どのあたりにあったのでしょう。もちろん通航頻度の低さが、理由の一つとは思いますが。

●後扉室の向こうに伸びる河道に目をやると、南岸が新たに土盛りされ、低いながら堤防として強化されているように見えました。以前からこうだったかな? いずれにせよ、二つの閘門を含め、前川に大きな変化が訪れていることは感じられたものです。

●前扉室の前の護岸に、片足立ちでひょろ長く伸びて、魚を探す風情の鷺さんを一枚。いつもながら飄々とした表情で、周りの雰囲気まで可笑しみに包まれたような気分にさせてくれます。

これが正しいやり方なのかわかりませんが、十数年来この方法で奉って、大きな事故もないため、まずご機嫌を損ねるようなことはないものと思われます。
何より今年は、早々1日からお札の霊験を痛感させられたこともあり、やはり利根川高瀬舟の船頭や船主が崇敬したお社、あんば様のご加護あっての我が川ップネだと、敬意を新たにしたものでした。
(令和5年1月2日撮影)
(この項おわり)

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前川二閘門の変化…4
(『前川二閘門の変化…3』のつづき)

●大洲閘門に到着、水際に降りて、閘室を見通せるところからのぞき込んでみると‥‥ああ、やっぱり。前後の扉室が開放されていました‥‥。
前川の水位低下化区間が周囲の河川と水面を一にし、東西を守っていた二閘門とも開放状態とあっては、お役御免だと感じても、あながち外れた妄想ではないでしょう。
●閘室上を渡る橋の上から、後扉室のゲート周りを眺めていたら、扉体の上にくつろぐ鳩さんの姿が。巻上機にかぶせられた、ステンレスのケーシング内に営巣しているのですね。
平成20年、初めて訪ねたとき(過去ログ『大洲閘門…1』ほか参照)から、鳩がいついているのを見ていましたから、ここはよほど環境がよいのでしょう。

●橋を渡って南岸に出、西側の前扉室を眺めてやろうと水際へ。そこそこ幅のある舗装道路が閘室を覆い、さして高さのないコンクリート生地のゲートが二つ、うっそり頭を出している風景‥‥。
ゲート設備だけ見るとうらぶれた雰囲気ながら、暗い感じがしないのは、水郷らしく周りが開けているのと、冬の穏やかな好天で陽光が降り注いでいるせいでしょうか。

●さて、水際に降りてみると、ひとつ衝撃が。
「この水門より先は
通行許可のない船は
入れません
※農業用水路のため
潮来市 土地改良区
潮来市」
●米島閘門にはなかったので、ようやく、といった感じもしましたが、ここで初めて、一般船艇の自由通航が禁じられた区間であることがわかったわけです。
一時的なものなのか、このまま河川の改修とともに、両閘門とも撤去の方向に進むのか‥‥。もともと通航量が僅少な区間でしたから、水郷からまた一つ、極小閘門のある風景が失われるであろう、そんな気がしてなりません。
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…5』につづく)

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●大洲閘門に到着、水際に降りて、閘室を見通せるところからのぞき込んでみると‥‥ああ、やっぱり。前後の扉室が開放されていました‥‥。
前川の水位低下化区間が周囲の河川と水面を一にし、東西を守っていた二閘門とも開放状態とあっては、お役御免だと感じても、あながち外れた妄想ではないでしょう。

平成20年、初めて訪ねたとき(過去ログ『大洲閘門…1』ほか参照)から、鳩がいついているのを見ていましたから、ここはよほど環境がよいのでしょう。

●橋を渡って南岸に出、西側の前扉室を眺めてやろうと水際へ。そこそこ幅のある舗装道路が閘室を覆い、さして高さのないコンクリート生地のゲートが二つ、うっそり頭を出している風景‥‥。
ゲート設備だけ見るとうらぶれた雰囲気ながら、暗い感じがしないのは、水郷らしく周りが開けているのと、冬の穏やかな好天で陽光が降り注いでいるせいでしょうか。

●さて、水際に降りてみると、ひとつ衝撃が。
「この水門より先は
通行許可のない船は
入れません
※農業用水路のため
潮来市 土地改良区
潮来市」

一時的なものなのか、このまま河川の改修とともに、両閘門とも撤去の方向に進むのか‥‥。もともと通航量が僅少な区間でしたから、水郷からまた一つ、極小閘門のある風景が失われるであろう、そんな気がしてなりません。
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…5』につづく)

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前川二閘門の変化…3
(『前川二閘門の変化…2』のつづき)

●管理橋からふたたび眺めた前扉室と、後扉室の扉体をのぞいたところ。もしかすると、次に訪ねたときは変わり果てた姿になっているかもしれないと思うと、さまざまな角度から記録しておきたいと、あちこちのぞき込んだものでした。
前回訪問時も、閘門の周囲は数台のクルマが停まり、釣り人さんで賑わっていましたが、この日も同様でした。扉体が開放されて鰐川と通水している分、釣果はよくなったのでしょうか。

●機能を止めた閘門に少々気落ちしながらも、堤防上から望む鰐川畔の水辺風景は雄大そのもので、快晴も手伝ってまあ、気持ちのよいこと。しばし景色を堪能してから、さて、大洲閘門に向かうとしましょう。
●前川に沿った道を西へ走りながら、川面の様子を観察。見たかぎり、水位低下をやめた分、ヒタヒタになっているような‥‥のは当然としても、どのくらい水位差があったのか。0.5mくらいでしょうか。
右手に見える田んぼの標高より、水面の方がわずかに高いか、同じくらいに見えますがいかがでしょう。排水はポンプで行われているのかな?

●道半ばを過ぎたあたりで、いきなり建造中の橋がヌッと現れ、平坦な風景の中だけに意表を突かれました。前後の形からして、これから築堤が伸びてくるようですね。
右手、重機の見えるあたりに、看板があったので読んでみると、東関東自動車道・水戸線の橋を造っているとのこと。長らく潮来が終点だった東関道もいよいよ延伸され、鉾田まで来ている片割れといずれつながるのですね。
【撮影地点のMapion地図】←場所は推定です。
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…4』につづく)

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前回訪問時も、閘門の周囲は数台のクルマが停まり、釣り人さんで賑わっていましたが、この日も同様でした。扉体が開放されて鰐川と通水している分、釣果はよくなったのでしょうか。

●機能を止めた閘門に少々気落ちしながらも、堤防上から望む鰐川畔の水辺風景は雄大そのもので、快晴も手伝ってまあ、気持ちのよいこと。しばし景色を堪能してから、さて、大洲閘門に向かうとしましょう。

右手に見える田んぼの標高より、水面の方がわずかに高いか、同じくらいに見えますがいかがでしょう。排水はポンプで行われているのかな?

●道半ばを過ぎたあたりで、いきなり建造中の橋がヌッと現れ、平坦な風景の中だけに意表を突かれました。前後の形からして、これから築堤が伸びてくるようですね。
右手、重機の見えるあたりに、看板があったので読んでみると、東関東自動車道・水戸線の橋を造っているとのこと。長らく潮来が終点だった東関道もいよいよ延伸され、鉾田まで来ている片割れといずれつながるのですね。
【撮影地点のMapion地図】←場所は推定です。
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…4』につづく)

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前川二閘門の変化…2
(『前川二閘門の変化…1』のつづき)

●堤防上に戻って、閘室を改めてのぞいてみると‥‥あっ、前扉室だけでなく、後扉室もゲートが開放されている!
ということは、前川が鰐川と同じ水位になったこと、つまり水位低下化河川でなくなったことを意味しています。これには驚かされました。どういったいきさつでこうなったのかはわかりませんが、水位差がなくなったということは、閘門が不要になったと考えて間違いないでしょう。

●南側に出て、後扉室ゲートを一枚。こちらも信号は消灯しており、生気が感じられません。
もう一つ気になったのは、どちらも扉体が全開でなく、通水だけを目的としたような、中途半端な開き方であったこと。つまり、水は通しても、船底の進入は拒みたい、という意思を感じたのでした。前扉室にも、「通船禁止」などと表記した看板はなかったものの、これではカヤック程度でも通れなさそうです。
●管理橋を渡ると、閘室の水面へ降りる階段の扉が開放されていたので、失礼して降りてみました。
前川の堤防がかさ上げ・強化されたとか、水田などの排水を他に取るようにしたとか、水位低下が不要になった理由は何でしょう。前川の西を守るもう一つの閘門、大洲閘門も同様なのでしょうか。

●閘室の水面近くから鰐川方、前扉室を見上げて。この様子だと、次に訪ねたら後扉室が撤去され、前扉室だけ‥‥つまり、単なる樋門になっているかもしれないと、マイナス思考になりながら眺めたものです。
何しろ同じ水郷の小閘門では、扇島閘門の前例がありますから、そう考えてしまうのも無理からぬところ。ああ、また水郷から魅力的な閘門風景が消えるのか‥‥(脳内ですっかり既定の事実に)。
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…3』につづく)

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●堤防上に戻って、閘室を改めてのぞいてみると‥‥あっ、前扉室だけでなく、後扉室もゲートが開放されている!
ということは、前川が鰐川と同じ水位になったこと、つまり水位低下化河川でなくなったことを意味しています。これには驚かされました。どういったいきさつでこうなったのかはわかりませんが、水位差がなくなったということは、閘門が不要になったと考えて間違いないでしょう。


もう一つ気になったのは、どちらも扉体が全開でなく、通水だけを目的としたような、中途半端な開き方であったこと。つまり、水は通しても、船底の進入は拒みたい、という意思を感じたのでした。前扉室にも、「通船禁止」などと表記した看板はなかったものの、これではカヤック程度でも通れなさそうです。

前川の堤防がかさ上げ・強化されたとか、水田などの排水を他に取るようにしたとか、水位低下が不要になった理由は何でしょう。前川の西を守るもう一つの閘門、大洲閘門も同様なのでしょうか。

●閘室の水面近くから鰐川方、前扉室を見上げて。この様子だと、次に訪ねたら後扉室が撤去され、前扉室だけ‥‥つまり、単なる樋門になっているかもしれないと、マイナス思考になりながら眺めたものです。
何しろ同じ水郷の小閘門では、扇島閘門の前例がありますから、そう考えてしまうのも無理からぬところ。ああ、また水郷から魅力的な閘門風景が消えるのか‥‥(脳内ですっかり既定の事実に)。
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年1月2日撮影)
(『前川二閘門の変化…3』につづく)

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