6月7日の旧岩淵水門
(『6月7日の荒川、ほんの少し』のつづき)
●岩淵に到着、荒川・隅田川の分流点から少し上流へ上がり、転回して旧岩淵水門に久しぶりのご挨拶。
緊急事態宣言解除から間がないとあって、水際には多くの人が見られ、結構な賑わい。水門に寄せようと岸に近づくと、バーベキューでもしているのかいい匂いが。穏やかな好天も手伝って、久しぶりの開放感を楽しまれたことでしょう。

●しかし、こうも水際に人出があると、あまり水門に近づくのもはばかられそう。というわけで、ソーシャルディスタンス(でもなんでもない)を取っての逢瀬となりました。光線もいま一つなので、扉体の継ぎ手などディテールもつぶれ気味でしたが、鮮やかな赤の扉体は健在です。

●裏側に回ってみようと、分流点へ。旧岩淵水門の管理橋で渡る“島”は、水際が石組の法面で降りやすいとあって、まあたくさんの釣り人さんが。意外と沖まで投じられている釣り糸を巻き込まないように、慎重にまいりましょう。
ご存知のとおり、現岩淵水門を造った際、現地保存された旧水門に負担がかからないよう、堤防の一部を切断して、新たな分流点・通船路としたのです。
魚探の感へ目を落とすと、切断箇所に入って間もなく、水深がぐっと上がって、再びゆるやかに下がってゆくのを見ることができました。かつてここに堤防があったことを、感じさせる河底地形(?)であります。

●裏側‥‥いや、下流側といった方がいいかしら。こちらは扉体が隠れるので、絵的には地味になりますが、扉体の構造やコンクリートの継ぎ目など、ディテールはくっきり。戦前の大形水門らしい風格が堪能できます。
現岩淵水門も、耐震補強や塗り替えなど工事があったと聞いています。そちらの変化も記録しつつ、隅田川を流頭部から下ってゆきましょう。
【撮影地点のMapion地図】
(令和2年6月7日撮影)
(『6月7日の岩淵水門』につづく)

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緊急事態宣言解除から間がないとあって、水際には多くの人が見られ、結構な賑わい。水門に寄せようと岸に近づくと、バーベキューでもしているのかいい匂いが。穏やかな好天も手伝って、久しぶりの開放感を楽しまれたことでしょう。

●しかし、こうも水際に人出があると、あまり水門に近づくのもはばかられそう。というわけで、ソーシャルディスタンス(でもなんでもない)を取っての逢瀬となりました。光線もいま一つなので、扉体の継ぎ手などディテールもつぶれ気味でしたが、鮮やかな赤の扉体は健在です。


ご存知のとおり、現岩淵水門を造った際、現地保存された旧水門に負担がかからないよう、堤防の一部を切断して、新たな分流点・通船路としたのです。
魚探の感へ目を落とすと、切断箇所に入って間もなく、水深がぐっと上がって、再びゆるやかに下がってゆくのを見ることができました。かつてここに堤防があったことを、感じさせる河底地形(?)であります。

●裏側‥‥いや、下流側といった方がいいかしら。こちらは扉体が隠れるので、絵的には地味になりますが、扉体の構造やコンクリートの継ぎ目など、ディテールはくっきり。戦前の大形水門らしい風格が堪能できます。
現岩淵水門も、耐震補強や塗り替えなど工事があったと聞いています。そちらの変化も記録しつつ、隅田川を流頭部から下ってゆきましょう。
【撮影地点のMapion地図】
(令和2年6月7日撮影)
(『6月7日の岩淵水門』につづく)

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10月9日の旧岩淵水門…2
(『10月9日の旧岩淵水門…1』のつづき)
●下流側右手の、堤体(といっていいのかな?)部分に目を向けて。
フラットな法面ではなく、橋脚状(?)の凸部をあしらっているあたり、造り手の細やかな心配りが垣間見えるように感じられます。つるりとした平面なのも悪くないですが、少しでもディテールがあった方が、見た目にも和らいだ雰囲気になりますものね。

●制水門の径間にぐっと寄せて。上流側と異なり、凹部を抜いた高欄、角にわずかな丸みをつけた堰柱と、ディテールを一つ一つ拾ってゆくは楽しいもの。
巻上機や動力伝達の部分は、竣工時よりだいぶかさが増していますが、それでも他の水門にくらべればこぢんまりとまとまっています。通船水門を別径間にしたおかげで、扉体の巻上高さが抑えられたこともあるでしょう。

●すでに11月15日からのタイトルで掲げてありますが、通船水門の径間に惹かれてトリミング。風通しがいい塩梅なのか、この桁下のみ蔦がよく繁り、左手の継手にはボッ、といった風に丸く灌木が自己主張しているという、独特の魅力に吸い寄せられたわけです。
見方によっては、もう使われなくなって久しい、廃墟感を強調する眺めととる向きもあるやもしれません。左の丸い灌木も、不等沈下によって隙間を増した、継手を割って生えているのでしょうから、遺構らしい角度といえなくもないでしょう。

●光線よろしく、紅の塗色に構造の陰翳も映えるであろうと、少し距離を取ってから、通船水門を思い切りたぐって一枚。
竣工当初の“動力付き角落し”の時代を想えば、高さを抑え一直線に近かった天端のラインは崩されて、オリジナルのすっきりしたスタイルは失われ、ある意味無骨になったわけです。しかし、この堰柱や扉体が付されたことによって存在感はいや増し、むしろ眺める人に愛着を覚えさせたのではないかしら‥‥と妄想。
●最微速でゆるゆると遠ざかりながら各部を愛でて、ほどよい距離を隔てたところで、もう一度全体像をパチリ。役目を終え、その場で時を止めてから久しくを過ごしても、長きに渡り、水の憂いから低地を護ってきた威容は健在です。
人声の絶えない憩いの水辺にあって、頼もしくも美しいその姿を、いつまでも留めてほしいものですね。
(29年10月9日撮影)
(『10月9日の岩淵水門』につづく)

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フラットな法面ではなく、橋脚状(?)の凸部をあしらっているあたり、造り手の細やかな心配りが垣間見えるように感じられます。つるりとした平面なのも悪くないですが、少しでもディテールがあった方が、見た目にも和らいだ雰囲気になりますものね。

●制水門の径間にぐっと寄せて。上流側と異なり、凹部を抜いた高欄、角にわずかな丸みをつけた堰柱と、ディテールを一つ一つ拾ってゆくは楽しいもの。
巻上機や動力伝達の部分は、竣工時よりだいぶかさが増していますが、それでも他の水門にくらべればこぢんまりとまとまっています。通船水門を別径間にしたおかげで、扉体の巻上高さが抑えられたこともあるでしょう。

●すでに11月15日からのタイトルで掲げてありますが、通船水門の径間に惹かれてトリミング。風通しがいい塩梅なのか、この桁下のみ蔦がよく繁り、左手の継手にはボッ、といった風に丸く灌木が自己主張しているという、独特の魅力に吸い寄せられたわけです。
見方によっては、もう使われなくなって久しい、廃墟感を強調する眺めととる向きもあるやもしれません。左の丸い灌木も、不等沈下によって隙間を増した、継手を割って生えているのでしょうから、遺構らしい角度といえなくもないでしょう。

●光線よろしく、紅の塗色に構造の陰翳も映えるであろうと、少し距離を取ってから、通船水門を思い切りたぐって一枚。
竣工当初の“動力付き角落し”の時代を想えば、高さを抑え一直線に近かった天端のラインは崩されて、オリジナルのすっきりしたスタイルは失われ、ある意味無骨になったわけです。しかし、この堰柱や扉体が付されたことによって存在感はいや増し、むしろ眺める人に愛着を覚えさせたのではないかしら‥‥と妄想。

人声の絶えない憩いの水辺にあって、頼もしくも美しいその姿を、いつまでも留めてほしいものですね。
(29年10月9日撮影)
(『10月9日の岩淵水門』につづく)

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10月9日の旧岩淵水門…1
(『新芝川河口部の水門たち』のつづき)
●新芝川を出て、対岸にある旧岩淵水門を訪ねてみました。引退後も現地保存されているこの水門、周囲は公園で釣り人さんが多いせいもあり、どうも近寄り難いものがあって、今までつぶさに愛でられずに来てしまいました。
この日も写真左手の旧堤防(現在は切断されて島状の公園地)を中心に、法面から水面に向けて多くの竿が突きだされ、ちょっとした引き波もはばかられる雰囲気です。う~ん‥‥。
●勇気を出して、そろりそろりと近づいてみましたが、もろもろの視線が痛くこれが精一杯。あとはズームでたぐってガマンしましょう。
通船水門をたぐってはみたものの、やはり逆光が災いし、扉体スキンプレートのディテールはいま一つとらえられませんでした。格子状の継手に特徴があって、今の水門にない味があるのですが、致し方なし。

●左側、制水門(正式名称は知りませんが、そう呼んで差し支えないと思います)のアップも。動力、巻上機ともに更新・改造されているので、竣工時そのままというわけではありませんが、高欄のデザインなどに当時の面影がしのべます。
「旧岩淵水門の絵葉書」と見くらべてもわかるとおり、竣工後の地盤沈下は著しく、それも不等沈下とあって痛々しいかぎり。この写真でも、わずか1径間なのに傾いているのがわかり、新水門へ移行が待たれていたのが実感できます。

●逆光と釣り人さんの目線に閉口(失礼)して、旧堤防の中之島を回り、旧水門の下流側へ。おお、白くつぶれていた空は青く、扉体はもとより両岸の緑も鮮やか、光の塩梅は大事ですのう。

●管理橋上も人影は少ないし、両岸から釣竿は出ていないし、こちら側ならもう少し肉薄できそう。通船水門の径間桁下、風が通って環境がいいせいか、蔦がここだけ繁って独特の雰囲気。もそっと左に寄せてみますか。
【撮影地点のMapion地図】
(29年10月9日撮影)
(『10月9日の旧岩淵水門…2』につづく)

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この日も写真左手の旧堤防(現在は切断されて島状の公園地)を中心に、法面から水面に向けて多くの竿が突きだされ、ちょっとした引き波もはばかられる雰囲気です。う~ん‥‥。

通船水門をたぐってはみたものの、やはり逆光が災いし、扉体スキンプレートのディテールはいま一つとらえられませんでした。格子状の継手に特徴があって、今の水門にない味があるのですが、致し方なし。

●左側、制水門(正式名称は知りませんが、そう呼んで差し支えないと思います)のアップも。動力、巻上機ともに更新・改造されているので、竣工時そのままというわけではありませんが、高欄のデザインなどに当時の面影がしのべます。
「旧岩淵水門の絵葉書」と見くらべてもわかるとおり、竣工後の地盤沈下は著しく、それも不等沈下とあって痛々しいかぎり。この写真でも、わずか1径間なのに傾いているのがわかり、新水門へ移行が待たれていたのが実感できます。

●逆光と釣り人さんの目線に閉口(失礼)して、旧堤防の中之島を回り、旧水門の下流側へ。おお、白くつぶれていた空は青く、扉体はもとより両岸の緑も鮮やか、光の塩梅は大事ですのう。

●管理橋上も人影は少ないし、両岸から釣竿は出ていないし、こちら側ならもう少し肉薄できそう。通船水門の径間桁下、風が通って環境がいいせいか、蔦がここだけ繁って独特の雰囲気。もそっと左に寄せてみますか。
【撮影地点のMapion地図】
(29年10月9日撮影)
(『10月9日の旧岩淵水門…2』につづく)

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旧岩淵水門の絵葉書
●旧岩淵水門の絵葉書を2枚、お目にかけましょう。隅田川流頭部にあって、大正13年の荒川放水路通水以来、長きに渡り東京の北の護りとして活躍してきた当水門も、地盤沈下による機能不全や設備の老朽化で、昭和57年、すぐ下流に新設された新岩淵水門に道を譲って引退し、現在は現役最終時の姿のまま、現地保存されているのはご存知のとおりです。
絵葉書は2枚とももちろん現役時、竣工からまだ間もない姿を写したもので、現在とは異なるすっきりとした外観が印象的ですね。

●荒川放水路
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行、「東京・九段下・青雲堂出版部發行」の銘あり。
●現在の姿を見慣れた目には、実にシンプルな現役初期の旧岩淵水門。右端の、通船水門の扉体を収めたケーシング以外はあまり凹凸がなく、堤防天端と高さを合わせた本来のデザインの、直線的な美しさが堪能できる角度ですね。
多色刷りの絵葉書ながら、扉体の塗色を忠実に再現したものかどうかは、残念ながらわからないものの、キャプションに書かれた「この放水路と荒川とが王子區にとって一つのよい交通機關となってゐる」というあたり、当時まだ盛んだった水運の存在が濃厚に感じられる下りで、惹かれるものがあります。
●なお、当たり前のことで恐縮ですが、葉書の発行はいうまでもなく、水門竣工後の大正13年以降のどこかで、「大正7年4月以降の発行」は、葉書の通信面(裏面)仕様からの、推測発行時期を記したものに過ぎません、念のため…。
右側径間、通船水門の右手に、すでに過去の増水記録らしいマーキングが見られ、また下に掲げた絵葉書とくらべると、水位観測施設の脚が写っていない(修正された可能性も捨てきれませんが)ので、そのあたりから撮影時期をしぼれるとは思うのですが。

●近代都市的施設の荒川放水路閘門(大東京王子區)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらはモノクロで、1枚目より少し視点が近く、着色がない分、ディテールもより細かい部分までわかる上、右手前の水位観測施設や、護岸で釣りをする人物に、水面に浮かぶ艪舟ありと、見どころの多い写真となっています。
扉体の継ぎ目や、その上に見える巻上機のシャフトらしい横棒、手前の護岸にはめ込まれたブロックの形まで、鮮明に見て取れますね。あと、タイトルにある「閘門」は間違いというわけではなく、昔は水門を閘門と呼んでしまう例は、少なくありませんでした
●ちなみに通船水門上、右手にあるケーシングですが、角落としともいうべき、何枚かに分割された扉体を収めていたようですね。
「写真集・青山士/後世への遺産」(山海堂)掲載の写真で、竣工間もないころの増水時、水門が全閉鎖した場面を写したものがあったのですが、ケーシングが通船水門の真上に来ていたことから、巻上装置と扉体ごとレールの上を移動する、一種のトラベリングゲートだったと推測しています。このあたり資料が乏しいので、ご存知の方がおられたら、ご教示をいただきたいものです。
●さて、実際に艇から眺めた旧岩淵水門の写真となると、今まであまりご縁がないのか、残念ながらいい写真がありません。旧水門は通航禁止で、しかも釣り人さんも少なくないことも手伝い、ちょっと近寄りがたい気持ちがあるのでしょう。
一番新しい写真も、右の23年9月25日、新芝川を訪ねた帰り道に撮ったもの、その上曇り空で、あまりよい表情が撮れなかったというていたらく。
それでも、上の絵葉書とくらべてみると、地盤沈下で扉体と水面の間隔がずいぶん狭くなっていることや、不等沈下でわずかに傾いていることがわかるかと思います。この時点(13時ごろ)では、潮位が芝浦推算で130cm前後だったので、干潮時であれば、もう少し水面との間隔が広がってくるのでしょうが。

●裏側から見た写真の方が、傾き具合がよくわかりますね。記念物として美しく整備され、一見現役時と変わらないように思えますが、かしいださまを改めて眺めるとやはり痛々しく、新水門に役目を譲らなければならなかった理由が実感されます。
まあ、通航禁止とはいえ、艇で近づいて愛でるくらいのことをしても、怒られないでしょうから…。次に訪ねたら、ぐっとアップで、威容を感じられるような一枚をものしてやりたいですね。

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絵葉書は2枚とももちろん現役時、竣工からまだ間もない姿を写したもので、現在とは異なるすっきりとした外観が印象的ですね。

●荒川放水路
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行、「東京・九段下・青雲堂出版部發行」の銘あり。
●現在の姿を見慣れた目には、実にシンプルな現役初期の旧岩淵水門。右端の、通船水門の扉体を収めたケーシング以外はあまり凹凸がなく、堤防天端と高さを合わせた本来のデザインの、直線的な美しさが堪能できる角度ですね。
多色刷りの絵葉書ながら、扉体の塗色を忠実に再現したものかどうかは、残念ながらわからないものの、キャプションに書かれた「この放水路と荒川とが王子區にとって一つのよい交通機關となってゐる」というあたり、当時まだ盛んだった水運の存在が濃厚に感じられる下りで、惹かれるものがあります。
●なお、当たり前のことで恐縮ですが、葉書の発行はいうまでもなく、水門竣工後の大正13年以降のどこかで、「大正7年4月以降の発行」は、葉書の通信面(裏面)仕様からの、推測発行時期を記したものに過ぎません、念のため…。
右側径間、通船水門の右手に、すでに過去の増水記録らしいマーキングが見られ、また下に掲げた絵葉書とくらべると、水位観測施設の脚が写っていない(修正された可能性も捨てきれませんが)ので、そのあたりから撮影時期をしぼれるとは思うのですが。

●近代都市的施設の荒川放水路閘門(大東京王子區)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●こちらはモノクロで、1枚目より少し視点が近く、着色がない分、ディテールもより細かい部分までわかる上、右手前の水位観測施設や、護岸で釣りをする人物に、水面に浮かぶ艪舟ありと、見どころの多い写真となっています。
扉体の継ぎ目や、その上に見える巻上機のシャフトらしい横棒、手前の護岸にはめ込まれたブロックの形まで、鮮明に見て取れますね。あと、タイトルにある「閘門」は間違いというわけではなく、昔は水門を閘門と呼んでしまう例は、少なくありませんでした
●ちなみに通船水門上、右手にあるケーシングですが、角落としともいうべき、何枚かに分割された扉体を収めていたようですね。
「写真集・青山士/後世への遺産」(山海堂)掲載の写真で、竣工間もないころの増水時、水門が全閉鎖した場面を写したものがあったのですが、ケーシングが通船水門の真上に来ていたことから、巻上装置と扉体ごとレールの上を移動する、一種のトラベリングゲートだったと推測しています。このあたり資料が乏しいので、ご存知の方がおられたら、ご教示をいただきたいものです。

一番新しい写真も、右の23年9月25日、新芝川を訪ねた帰り道に撮ったもの、その上曇り空で、あまりよい表情が撮れなかったというていたらく。
それでも、上の絵葉書とくらべてみると、地盤沈下で扉体と水面の間隔がずいぶん狭くなっていることや、不等沈下でわずかに傾いていることがわかるかと思います。この時点(13時ごろ)では、潮位が芝浦推算で130cm前後だったので、干潮時であれば、もう少し水面との間隔が広がってくるのでしょうが。

●裏側から見た写真の方が、傾き具合がよくわかりますね。記念物として美しく整備され、一見現役時と変わらないように思えますが、かしいださまを改めて眺めるとやはり痛々しく、新水門に役目を譲らなければならなかった理由が実感されます。
まあ、通航禁止とはいえ、艇で近づいて愛でるくらいのことをしても、怒られないでしょうから…。次に訪ねたら、ぐっとアップで、威容を感じられるような一枚をものしてやりたいですね。

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