新井郷川閘門…5
(『新井郷川閘門…4』のつづき)

●管理橋の上から西側を見ると、これまた素晴らしい水路風景。草深い岸辺を枕にするかのごとく、河岸棒を突いたフネブネがずらりともやい、低い家並が水際近くまで迫る眺めは、まさに水郷そのものです。
かつて、ここが新井郷川の本流だったころ、川蒸気が走っていた時代は、川幅ももっと広かったことでしょう。分水路が海まで通じ「派川」になってこそ、このひなびた佳さが醸し出されたのかもしれません。
●ゲートの撤去跡。肉厚でごつい角落としの戸溝はそのまま、堰柱を取り去った部分もきれいにコンクリートで埋められています。こうなってから何年が経過したのでしょうか。
ゲートを片方撤去して、閘門から水門に用途転換されたものとしては、水郷の旧扇島閘門(『さようなら、扇島閘門…1』ほか参照)が思い出されます。国内には他にも、同じような例がありそうですね。
●管理橋を渡り、閘室の北岸をのぞいてみると、児童遊園を兼ねた公園になっていました。廃墟というわけではなさそうですが、あまり手を入れていないのかずいぶん草ぼうぼうで、人気もなく寂しげです。
おや、左手に石碑のようなものが見えますね、閘門や水路に関するものかしらと期待して、見てみることにしました。

●石碑の題は「新井郷川治水碑」やはり、水路に関する記念碑でした。まだ新しい説明板が設けられていて、碑文の内容が解説されています。
閘門のある派川新井郷川分水路がかつて本流だったこと、洪水に悩まされたことから、大正9年から昭和9年の15年に及ぶ大改修が行われ、水門・閘門と分水路が造られたこと、そして本工事の功労者として、濁川村村長・近藤耕太の名が挙げられていました。
砂丘に育まれた大小の河川と潟湖を縫って、越後平野に航路を広げた舟運の時代は、すでに遠く去りましたが、閘門のゲートと治水碑をしのぶよすがとして、かつての賑わいが末長く伝えられてゆくことを願っています。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川水門の周辺…1』につづく)

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●管理橋の上から西側を見ると、これまた素晴らしい水路風景。草深い岸辺を枕にするかのごとく、河岸棒を突いたフネブネがずらりともやい、低い家並が水際近くまで迫る眺めは、まさに水郷そのものです。
かつて、ここが新井郷川の本流だったころ、川蒸気が走っていた時代は、川幅ももっと広かったことでしょう。分水路が海まで通じ「派川」になってこそ、このひなびた佳さが醸し出されたのかもしれません。

ゲートを片方撤去して、閘門から水門に用途転換されたものとしては、水郷の旧扇島閘門(『さようなら、扇島閘門…1』ほか参照)が思い出されます。国内には他にも、同じような例がありそうですね。

おや、左手に石碑のようなものが見えますね、閘門や水路に関するものかしらと期待して、見てみることにしました。


閘門のある派川新井郷川分水路がかつて本流だったこと、洪水に悩まされたことから、大正9年から昭和9年の15年に及ぶ大改修が行われ、水門・閘門と分水路が造られたこと、そして本工事の功労者として、濁川村村長・近藤耕太の名が挙げられていました。
砂丘に育まれた大小の河川と潟湖を縫って、越後平野に航路を広げた舟運の時代は、すでに遠く去りましたが、閘門のゲートと治水碑をしのぶよすがとして、かつての賑わいが末長く伝えられてゆくことを願っています。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川水門の周辺…1』につづく)

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新井郷川閘門…4
(『新井郷川閘門…3』のつづき)

●管理橋から西側、閘室に目をやると、両岸ともこんもりと草木が茂って、自然に還らんばかり。かつてこの地域でよく見られた、点在する潟湖をつないで流れていた堀割や小河川は、こんな風景だったのかも…と思わせる、ひなびた佳さがありました。
向こうのゲートは、閘門として用途廃止された際、きれいに取り去られてしまったようで、いま一つの管理橋のみが見えます。後で行ってみましょう。
●ふと足元を見ると、閘室の水際に降りる階段が目に入りました。草が生い茂ってほとんど隠れてしまっていますが、法面は石垣か、コンクリートブロックの護岸で固められていたようです。
ちなみに、Mapion地図の上で測ったところでは、ゲートを含めた閘室の長さは約60mでした。径間5~6mと思われる小型閘門としては、そこそこの広さが取られており、一度の操作でかなりの数の舟をさばけたことでしょう。
●西側の管理橋を南岸から眺めて。イヤ、思った以上にいい雰囲気ですね! 両橋詰に並ぶ鋳鉄の柵と、RC橋の竣工年代が同じで、バランスが取れていることも大きいのでしょうが、それだけではないような気がします。
ふと、橋の径間のほどよい短さが、この空気を醸し出す要素の一つなのかも、と思い当りました。江東内部河川の震災復興トラス橋群を好ましく思う理由が、径間と天地寸法がイイ塩梅であること…、気持ちよく眺められるスケールとでもいうのでしょうか。それに近い感覚があったのです。

●南詰から正面を。親柱には、残念ながら銘板はありませんでしたが、この距離から見ても触感が手のひらに伝わってくるような、骨材の洗い出されたざらついた肌、角に鉄筋が露出した様子に、風雪を経たもの特有の雰囲気が感じられて、草いきれの中、汗がしたたるのも忘れてしばし立ちつくしました。
●西側からゲートを眺めて。向こうの管理橋が、より交通量の多い道に架かっているとくれば仕方がないのですが、こうして眺めると、架け替えてしまったのがいかにも惜しいですね。
もし東側の管理橋がこちらと同様だったら、酷暑ならずともクラクラするような、いにしえを思わせる完璧に近い水門風景となったであろうだけに、やはり惜しまれます。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…5』につづく)

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●管理橋から西側、閘室に目をやると、両岸ともこんもりと草木が茂って、自然に還らんばかり。かつてこの地域でよく見られた、点在する潟湖をつないで流れていた堀割や小河川は、こんな風景だったのかも…と思わせる、ひなびた佳さがありました。
向こうのゲートは、閘門として用途廃止された際、きれいに取り去られてしまったようで、いま一つの管理橋のみが見えます。後で行ってみましょう。

ちなみに、Mapion地図の上で測ったところでは、ゲートを含めた閘室の長さは約60mでした。径間5~6mと思われる小型閘門としては、そこそこの広さが取られており、一度の操作でかなりの数の舟をさばけたことでしょう。

ふと、橋の径間のほどよい短さが、この空気を醸し出す要素の一つなのかも、と思い当りました。江東内部河川の震災復興トラス橋群を好ましく思う理由が、径間と天地寸法がイイ塩梅であること…、気持ちよく眺められるスケールとでもいうのでしょうか。それに近い感覚があったのです。

●南詰から正面を。親柱には、残念ながら銘板はありませんでしたが、この距離から見ても触感が手のひらに伝わってくるような、骨材の洗い出されたざらついた肌、角に鉄筋が露出した様子に、風雪を経たもの特有の雰囲気が感じられて、草いきれの中、汗がしたたるのも忘れてしばし立ちつくしました。

もし東側の管理橋がこちらと同様だったら、酷暑ならずともクラクラするような、いにしえを思わせる完璧に近い水門風景となったであろうだけに、やはり惜しまれます。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…5』につづく)

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新井郷川閘門…3
(『新井郷川閘門…2』のつづき)
●扉体の上下は、ワイヤーでなくチェーンで行う方式でした。チェーン式のゲートを見るのは三栖閘門(『三栖閘門…1』ほか参照)以来ですが、三栖は引退した静態保存の閘門。今でも可動状態を保っている現役ゲートとなると、ここが初めてです。
三栖閘門同様、この下にはカウンターウェイトがぶら下がっていると見て、カメラを突っ込んだりとあれこれ悪あがきしてみたのですが、うまく撮れませんでした。

●さて、前々回に「戸溝の左右からチラリとのぞくアレは?」と触れた件ですが、裏側から戸溝をのぞき込んで、やはり! と嬉しくなりました。戸溝の中に、チェーンのような恰好のものが、半分水に浸かってはまっているのが見えますね。これ、ストーニーゲートの梯子状ローラーだ!
●右の写真は、正面から撮った扉体の戸溝部分をアップにしたものです。動滑車に吊られて、梯子状ローラーの先端が、戸溝から顔を出していますね。動滑車を吊るワイヤーの一端は堰柱の梁に、もう一端は扉体の上端につながれており、扉体と戸溝に挟まれながら2分の1のストロークで上下します。
これも三栖閘門と同じ方式で、やはり現役ゲートとしては数少ないタイプですから、大切にしていただきたいものですね。
●柵に取り付けられていた説明板。閘門は昭和6年の竣工。あれ、分水路の竣工が昭和8年となっている…まあ、年度の関係などで、1年程度の差が文献によって生じるのは、よくあることではあります。
写真が小さいので、竣工時の扉体や動力装置の様子がわからないのが残念ですが、通航を待つ和船の数から、盛んに利用されていたことが感じられる写真ですね。
閘門の径間の狭さと低さは、いかにも和船専用で、川蒸気など大型船の通航は不可能な寸法です。恐らく、計画が持ち上がった大正半ばから末の時点で、明治以来の川蒸気はすでに衰えており、考えに入れなくともよい状況だったのでしょう。
●赤錆びた柵の柱は鉄鋳物で、簡素ながら意匠が施されており、閘門の雰囲気とぴったり。もちろん竣工当時からのものでしょうね。
陽射しでカンカンに焼けた鋳物の肌に触れながら、昭和一桁生まれのゲートが現役でいるありがたさを、実感したことでした。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…4』につづく)

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三栖閘門同様、この下にはカウンターウェイトがぶら下がっていると見て、カメラを突っ込んだりとあれこれ悪あがきしてみたのですが、うまく撮れませんでした。

●さて、前々回に「戸溝の左右からチラリとのぞくアレは?」と触れた件ですが、裏側から戸溝をのぞき込んで、やはり! と嬉しくなりました。戸溝の中に、チェーンのような恰好のものが、半分水に浸かってはまっているのが見えますね。これ、ストーニーゲートの梯子状ローラーだ!

これも三栖閘門と同じ方式で、やはり現役ゲートとしては数少ないタイプですから、大切にしていただきたいものですね。

写真が小さいので、竣工時の扉体や動力装置の様子がわからないのが残念ですが、通航を待つ和船の数から、盛んに利用されていたことが感じられる写真ですね。
閘門の径間の狭さと低さは、いかにも和船専用で、川蒸気など大型船の通航は不可能な寸法です。恐らく、計画が持ち上がった大正半ばから末の時点で、明治以来の川蒸気はすでに衰えており、考えに入れなくともよい状況だったのでしょう。

陽射しでカンカンに焼けた鋳物の肌に触れながら、昭和一桁生まれのゲートが現役でいるありがたさを、実感したことでした。
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…4』につづく)

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新井郷川閘門…2
(『新井郷川閘門…1』のつづき)
●裏側に回ってみました。柵だけでなく、管理橋のガードレールも邪魔して雰囲気はいま一つですが、ガードレールと比較できるお陰で、ゲートの小ささが際立つ視点ではあります。
扉体の裏側上端近くには、ランボードが取り付けられているのが見えますね。注排水用スライドゲートのハンドルは、扉体が降りた後にここに人が上がって操作したのでしょう。
ちなみに、写真ではよくわかりませんが、左右の堰柱は2段目から下に向かって、わずかですが、内側が先すぼまりに絞られた格好に造られています。
●扉体に近寄って観察。ランボードから上、扉体の最上段はやはり、後年の継ぎ足しですね。ここだけ溶接で組まれており、明らかに他と違います。左右に見える休止フック(扉体を長期間上げたままにしておく際に、引っかけておくフック)のリンクも、新しいので同様の増設でしょう。
正面から見たとき、いくら小型船用の閘門とはいえ、水面との間に余裕がなさすぎること、注排水用ゲートのスピンドル軸が、途中でわざわざ切られていることが引っかかったのですが、これで謎が氷解しました。
扉体は今より、少なくとも50cmくらいは高い位置まで引き上げられていたのでしょうね。

●閘門としての役目は終えたとはいえ、水門としては現役ですから、当然ながらさまざまな改造が施されているのですね。堰柱から梁に走る、動力線の配線もそうでしょう。あっ、右側に見える3本は電線でなく、上端にクランクがついているので、何かのロッドのようです。ロッドを追って下に目をやると…。
●目の前に、すんごく気になる造作のモノが…は置いておいて、写真右、3本あるロッドの下端には、ラッチつきのハンドルが。ターンバックルで調整できるような造りになっています。
う~ん、3本あるというのが気になりますね。扉体の操作から考えると、上昇と下降を選択する逆転機構、動力のON-OFF、それにブレーキといったところかな?

●で、すんごく気になるコレですが、強烈な外観もさることながら、どうやら扉体の開度計らしいことを知って、ハートをわしづかまれました。ちなみに、両岸に同じもの(左右は逆)が一つづつ設けられています。
どこか、唐笠をかむった一本足の妖怪を思わせる、一度見たら忘れないカタチをしていますね。もちろん機械式でしょうから、堰柱内のどこかから長いシャフトでここまで伝達しているに違いありません。左右に耳のように出っ張っているのは、最終段のギヤを支える軸受けでしょうか。
●くすんだ真鍮の文字盤には、0から5まで目盛りが刻まれており、指針は4を指しています。やはり、改造で扉体が竣工時より上がらなくなったのかな? いや、文字盤をよく見ると、4の直前に「H」みたいな文字が…。何だろう? 実質の最大開度を示しているのかしら? それに、文字盤の単位も謎です。まさか「尺」? う~ん、謎が深まるばかりの、まさに妖怪開度計でした。
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…3』につづく)

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扉体の裏側上端近くには、ランボードが取り付けられているのが見えますね。注排水用スライドゲートのハンドルは、扉体が降りた後にここに人が上がって操作したのでしょう。
ちなみに、写真ではよくわかりませんが、左右の堰柱は2段目から下に向かって、わずかですが、内側が先すぼまりに絞られた格好に造られています。

正面から見たとき、いくら小型船用の閘門とはいえ、水面との間に余裕がなさすぎること、注排水用ゲートのスピンドル軸が、途中でわざわざ切られていることが引っかかったのですが、これで謎が氷解しました。
扉体は今より、少なくとも50cmくらいは高い位置まで引き上げられていたのでしょうね。

●閘門としての役目は終えたとはいえ、水門としては現役ですから、当然ながらさまざまな改造が施されているのですね。堰柱から梁に走る、動力線の配線もそうでしょう。あっ、右側に見える3本は電線でなく、上端にクランクがついているので、何かのロッドのようです。ロッドを追って下に目をやると…。

う~ん、3本あるというのが気になりますね。扉体の操作から考えると、上昇と下降を選択する逆転機構、動力のON-OFF、それにブレーキといったところかな?

●で、すんごく気になるコレですが、強烈な外観もさることながら、どうやら扉体の開度計らしいことを知って、ハートをわしづかまれました。ちなみに、両岸に同じもの(左右は逆)が一つづつ設けられています。
どこか、唐笠をかむった一本足の妖怪を思わせる、一度見たら忘れないカタチをしていますね。もちろん機械式でしょうから、堰柱内のどこかから長いシャフトでここまで伝達しているに違いありません。左右に耳のように出っ張っているのは、最終段のギヤを支える軸受けでしょうか。
●くすんだ真鍮の文字盤には、0から5まで目盛りが刻まれており、指針は4を指しています。やはり、改造で扉体が竣工時より上がらなくなったのかな? いや、文字盤をよく見ると、4の直前に「H」みたいな文字が…。何だろう? 実質の最大開度を示しているのかしら? それに、文字盤の単位も謎です。まさか「尺」? う~ん、謎が深まるばかりの、まさに妖怪開度計でした。
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…3』につづく)

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新井郷川閘門…1
(『新井郷川排水機場の「船通し」…4』のつづき)
●新井郷川排水機場から1km弱北上した、丁字流に到着(Mapion地図)。写真はほぼ北を見たところで、水際には葦が生い茂り、繋留船が点々ともやう、市街地ながらのどかな水路風景です。向こうにこんもりと盛り上がる森は、砂丘の名残りの地形でしょうか。
たびたび参考にさせていただいている、新潟市ガイドの「新井郷川」「新井郷川分水路」によると、現在の新井郷川本流は福島潟を源流とし、北区高森付近で阿賀野川に合流する延長9.3kmの流路で、北区新井郷の兄弟堀から分流し日本海に至る区間は、新井郷川分水路なのだそう。新井郷川排水機場も、この丁字流も、分水路の方に属するわけです。
●かつては、これから紹介する派川新井郷川分水路が、新井郷川本流の最下流部だったのですが、昭和9年に写真の丁字流から日本海まで分水路が開鑿され、後に旧本流の一部も、分水路に統合されたかたちになりました。
明治11年には早くも川蒸気が就航、首邑であった葛塚から新井郷川を下り、阿賀野川・通船川を経て新潟に至る路線は、「葛塚蒸気」と呼ばれて親しまれていたとのこと。この川が新潟近郊の重要な物流路として、機能していたことがうかがえます。

●1枚目の写真とほぼ同じ位置から、西側に目線を移すと…いやもう、魅力的すぎる水門風景が!
16日からのタイトルでもご覧に入れましたが、緑したたる木々をバックにひっそりとたたずむ、鋼製堰柱の小さな閘門! 遠目にもディテール豊かなのが感じられ、どこから見ていいのやら、目移りするほどです。
●派川新井郷川分水路の入口を守るこの水門、正面に抜き文字で掲げてあるとおり、新井郷川閘門といいます。
現在は残念ながら、閘門としての機能は失われているので、「旧」新井郷川閘門、とでも呼ぶべきでなのでしょうが、現在の正式名称がわからず、また素晴らしい抜き文字の銘板(?)もそのままなので、あえて閘門と呼ばせていただきましょう。
●スキンプレート側がこれほど濃厚な扉体も、めったにないのではないでしょうか。縦横に走る鋲列はいうまでもありませんが、二つある注排水用スライドゲート周りの発散する香気ときたら! 扉体は鋳物でしょうか、泥に染まった姿が、まるで板チョコのようでもあります。
スライドゲートから上に伸びるスピンドルの上には、かつて操作用のハンドルがついていたのでしょう。スキンプレートの上4分の1、リベットのない部分は、後年の継ぎ足しでしょうか。…あ、戸溝の左右からチラリとのぞくアレは? これは後で観察してみましょう。

●近づいて、南側から。背の高い柵に囲まれ、周囲を後付けのボックスや電柱が、所狭しと詰まっているので、昔のままの雰囲気というわけにはいきませんが、この角度もなかなか。戦後の水門に無い魅力が、存分に楽しめそうです。今回も汗みずくでうろつきまくるぞ!
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…2』につづく)

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たびたび参考にさせていただいている、新潟市ガイドの「新井郷川」「新井郷川分水路」によると、現在の新井郷川本流は福島潟を源流とし、北区高森付近で阿賀野川に合流する延長9.3kmの流路で、北区新井郷の兄弟堀から分流し日本海に至る区間は、新井郷川分水路なのだそう。新井郷川排水機場も、この丁字流も、分水路の方に属するわけです。
●かつては、これから紹介する派川新井郷川分水路が、新井郷川本流の最下流部だったのですが、昭和9年に写真の丁字流から日本海まで分水路が開鑿され、後に旧本流の一部も、分水路に統合されたかたちになりました。
明治11年には早くも川蒸気が就航、首邑であった葛塚から新井郷川を下り、阿賀野川・通船川を経て新潟に至る路線は、「葛塚蒸気」と呼ばれて親しまれていたとのこと。この川が新潟近郊の重要な物流路として、機能していたことがうかがえます。

●1枚目の写真とほぼ同じ位置から、西側に目線を移すと…いやもう、魅力的すぎる水門風景が!
16日からのタイトルでもご覧に入れましたが、緑したたる木々をバックにひっそりとたたずむ、鋼製堰柱の小さな閘門! 遠目にもディテール豊かなのが感じられ、どこから見ていいのやら、目移りするほどです。

現在は残念ながら、閘門としての機能は失われているので、「旧」新井郷川閘門、とでも呼ぶべきでなのでしょうが、現在の正式名称がわからず、また素晴らしい抜き文字の銘板(?)もそのままなので、あえて閘門と呼ばせていただきましょう。

スライドゲートから上に伸びるスピンドルの上には、かつて操作用のハンドルがついていたのでしょう。スキンプレートの上4分の1、リベットのない部分は、後年の継ぎ足しでしょうか。…あ、戸溝の左右からチラリとのぞくアレは? これは後で観察してみましょう。

●近づいて、南側から。背の高い柵に囲まれ、周囲を後付けのボックスや電柱が、所狭しと詰まっているので、昔のままの雰囲気というわけにはいきませんが、この角度もなかなか。戦後の水門に無い魅力が、存分に楽しめそうです。今回も汗みずくでうろつきまくるぞ!
【撮影地点のMapion地図】
(23年8月10日撮影)
(『新井郷川閘門…2』につづく)

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