中島閘門に寄り道…2
(『中島閘門に寄り道…1』のつづき)

●「もみじ」の入閘を眺めて。堰柱のないマイタゲートは、閘室に入っても船がよく見えて、ローラーゲートのそれとはまた違った魅力が楽しめるものです。
排水の間に後扉室のそばへ移動し、出閘の様子も堪能。前日までしばらく雨天続きでしたから、この日は乗船希望のお客さんが引きも切らなかったのではないでしょうか。

●気になる階壁をのぞき込んでみると、おや、前回と違って水平面が泥か苔のようなもので覆われて、石張りが見えなくなっていますね。
今回は潮位の関係で、前回よりわずかに排水時の水位が高く、階壁を浸すくらいで露出はしませんでしたから、そのせいかなとも思ったのですが、どうでしょう。降雨量とか水温の関係で、藻が湧きやすかったとかもあるかもしれません。

●階壁に気を取られていたら、「もみじ」が早くも一周して戻ってきました。背の高いオーニングも見下ろせるような、大きな閘程(水位差)も魅力の一つです。
一つ忘れていました、がーさんたちがツブれていた桟橋の脇、「むくり護岸」と通称される、天端が曲面に成形された石組み護岸が現地保存されています。テラスでなく桟橋とすることで、護岸の原形を損なわず、また訪れた人が観察できるよう配慮されているというわけでした。
(29年9月23日撮影)
(『“ガンダーラ”にも寄ってみた!』につづく)

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排水の間に後扉室のそばへ移動し、出閘の様子も堪能。前日までしばらく雨天続きでしたから、この日は乗船希望のお客さんが引きも切らなかったのではないでしょうか。

●気になる階壁をのぞき込んでみると、おや、前回と違って水平面が泥か苔のようなもので覆われて、石張りが見えなくなっていますね。
今回は潮位の関係で、前回よりわずかに排水時の水位が高く、階壁を浸すくらいで露出はしませんでしたから、そのせいかなとも思ったのですが、どうでしょう。降雨量とか水温の関係で、藻が湧きやすかったとかもあるかもしれません。


一つ忘れていました、がーさんたちがツブれていた桟橋の脇、「むくり護岸」と通称される、天端が曲面に成形された石組み護岸が現地保存されています。テラスでなく桟橋とすることで、護岸の原形を損なわず、また訪れた人が観察できるよう配慮されているというわけでした。
(29年9月23日撮影)
(『“ガンダーラ”にも寄ってみた!』につづく)

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中島閘門に寄り道…1
(『萩之浦閘門跡を訪ねて…2』のつづき)

●萩之浦閘門跡を訪ねた後、そのまま神通川の堤防道を戻れば、当たり前ですがすぐ近くを通るということもあり、富山水路の顔役である、中島閘門に寄ってみました。前扉室ゲートをまずは一枚、左端にたゆたうカップ麺の器はご愛嬌。
このとき閘室は注水中でした。船が来るのかな? ズームでたぐり寄せて、扉体に掲げられた銘板も。純径間9.09m、扉高2.995m。

●上流側にある桟橋の上では、鴨さんたちがおくつろぎ中でした。平たくツブれたり、丸くふくらまって首を突っ込んだりと、可愛らしい姿を見られてトリ好き冥利であります。
この部分は竣工当時の護岸を保存していることもあり、歩道も桟橋になっているのですが、ジョギングの人が頻繁に通り、どすんどすんと結構な音と振動が伝わります。それでも鴨さんたちは涼しい顔、すっかり慣れているようですね。

●モーターのうなりが高まり、扉体が開きはじめました。ああ、マイタゲートが水面に渦を作って開扉するシーン、何度見てもいいなあ。
‥‥と、船がやって来ました。前回訪ねたときにお世話になった「もみじ」。お陰でゲートの運転も眺められました、いいタイミングで来てくれたものです。水面でまったりしていた鴨さんが、慌てて逃げてゆくのも微笑ましい。いや、寄ってみてよかった!
【撮影地点のMapion地図】
(29年9月23日撮影)
(『中島閘門に寄り道…2』につづく)

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このとき閘室は注水中でした。船が来るのかな? ズームでたぐり寄せて、扉体に掲げられた銘板も。純径間9.09m、扉高2.995m。

●上流側にある桟橋の上では、鴨さんたちがおくつろぎ中でした。平たくツブれたり、丸くふくらまって首を突っ込んだりと、可愛らしい姿を見られてトリ好き冥利であります。
この部分は竣工当時の護岸を保存していることもあり、歩道も桟橋になっているのですが、ジョギングの人が頻繁に通り、どすんどすんと結構な音と振動が伝わります。それでも鴨さんたちは涼しい顔、すっかり慣れているようですね。


‥‥と、船がやって来ました。前回訪ねたときにお世話になった「もみじ」。お陰でゲートの運転も眺められました、いいタイミングで来てくれたものです。水面でまったりしていた鴨さんが、慌てて逃げてゆくのも微笑ましい。いや、寄ってみてよかった!
【撮影地点のMapion地図】
(29年9月23日撮影)
(『中島閘門に寄り道…2』につづく)

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富岩運河の絵葉書に…
●富岩運河(関連記事はタグ『富岩運河』で表示)を題材にした昔の絵葉書に、一つ気になったところがあったのでご紹介します。

●富山新風景 岩瀬港に通ずる富岩運河
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●現在の環水公園、船溜に至る終端部の屈曲から、北の直線区間を望んだ写真。白く反射するコンクリートの法面、乱れなく一直線に走る水際のラインに、昭和9年の竣工からまだ日が浅い、清新さを感じさせます。
●少し風の強い日に撮影されたのでしょう、水面は波立っており、船影のない水路の広大さが強調されていますね。左下には別枠で、東岩瀬港の岸壁に接岸する、本船の姿も収められています。

●前回訪問時、27年6月20日に撮ったものから、絵葉書と近い角度の写真を探してみました。こちらの方が目線が低いですが、現在は左手にレストランが建っており、テラスも大きく前進して設けられているので、同一視点で運河を望むことはできないでしょう。
●こうして比較してみると、橋が新設されたこと、また両岸からテラスが張り出し、木も植えられて公園化されたたことで、運河が実際以上に狭まって見えますね。工業地帯造成のインフラから、公園地に潤いを与える水辺へと、80余年を経ての変貌ぶりが実感できる角度といえます。
●‥‥で、気になったところというのはですね(ためんなと)。イヤ、みなまでいわずとも、もう先刻ご承知と思いますが。

●右下にほんの少しですが、牛島閘門の扉体が写っていた!
●復元された今の姿でない、原形、現役時を目にするのは初めてです。後扉室の扉体、しかも片割れのさらに上半分だけではあるものの、ほんのひとかけらでも当時の様子に触れられるのは、閘門バカにとって慶事であります。
●何より先に目線がちゅ~と吸い寄せられたのは、扉体の開閉設備が、たった1本の丸棒であること!
●イヤ、人力で済ますにしたって、カウンターウェイトを兼ねたレバーを、軸とは反対方向へ扉体の延長線上に伸ばすとか、もうちょっと簡単かつスマートな方法が、他にあるような気がするのですが。
●国内ではロッドに、車地やラックなどを組み合わせ押し引きさせた例が多かった(『北上運河閘門めぐり…7』参照)ので、それを極限まで省いたのが、この形ということなのかしら? マイタゲートの開閉法で、私が見たかぎり最もチープで、それがゆえに珍しく、惹かれるものがありました!
●わずかとはえ、ディテールも検分してみましょう。特徴あるランボードの手すり、現在は帯材に穴を開けて、丸棒を通してから輪にしているつくりですが、これは原形をなぞったようですね。排水用スライドゲートの操作把手は、頭がT字形をしているのがわかるものの、単に上下させていたのか、スピンドルを回していたのかはわかりません。
●開閉用の棒、扉体との接合部はどうなっているのでしょう。ボールジョイントなんて気の利いたものはなかったでしょうから、見たところ穴を開けた帯材を立ち上げて、棒の先端には金具で輪を作り、ルーズに繋げていただけのように思われます。

●19年8月8日に撮った、牛島閘門後扉室。閘室は当時からのものを、大きな改修をせず流用したようですから、絵葉書と位置は変わりません。ただ、テラスが大きく前進し、おまけに橋も架けられたので、水際はすでに遠く、ずいぶん雰囲気は異なります。
●しかし、こうして絵葉書の写真で、竣工間もないころを眺めた後だと、復元に当たってオール電動化したことが、なおさら気になってきます。復元当初は、鼬川への定期航路立ち上げが計画にあって、ためにモーターライズが必須になったのかしら。
●イベント的な通航も絶えてなく、静態保存に限りなく近づいている現状では、ハテ? と首をひねるのが正直なところ。むしろ人力操作の方が、原形を忠実にという筋も立ち、しかも管理がぐっと楽になり、また通航体験としても、全国的に希少なやり方が、昔のまま保存されているということも手伝い、充実したものになったように思えます。
●まあ、扉体を押し引きする人のことを考えると、むしろ大変だとは思いますが‥‥。勝手なことをいい散らかして申しわけありません。以上、夏の夜の閘門バカ妄想でありました。

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●富山新風景 岩瀬港に通ずる富岩運河
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
●現在の環水公園、船溜に至る終端部の屈曲から、北の直線区間を望んだ写真。白く反射するコンクリートの法面、乱れなく一直線に走る水際のラインに、昭和9年の竣工からまだ日が浅い、清新さを感じさせます。
●少し風の強い日に撮影されたのでしょう、水面は波立っており、船影のない水路の広大さが強調されていますね。左下には別枠で、東岩瀬港の岸壁に接岸する、本船の姿も収められています。

●前回訪問時、27年6月20日に撮ったものから、絵葉書と近い角度の写真を探してみました。こちらの方が目線が低いですが、現在は左手にレストランが建っており、テラスも大きく前進して設けられているので、同一視点で運河を望むことはできないでしょう。
●こうして比較してみると、橋が新設されたこと、また両岸からテラスが張り出し、木も植えられて公園化されたたことで、運河が実際以上に狭まって見えますね。工業地帯造成のインフラから、公園地に潤いを与える水辺へと、80余年を経ての変貌ぶりが実感できる角度といえます。
●‥‥で、気になったところというのはですね(ためんなと)。イヤ、みなまでいわずとも、もう先刻ご承知と思いますが。

●右下にほんの少しですが、牛島閘門の扉体が写っていた!
●復元された今の姿でない、原形、現役時を目にするのは初めてです。後扉室の扉体、しかも片割れのさらに上半分だけではあるものの、ほんのひとかけらでも当時の様子に触れられるのは、閘門バカにとって慶事であります。
●何より先に目線がちゅ~と吸い寄せられたのは、扉体の開閉設備が、たった1本の丸棒であること!
●イヤ、人力で済ますにしたって、カウンターウェイトを兼ねたレバーを、軸とは反対方向へ扉体の延長線上に伸ばすとか、もうちょっと簡単かつスマートな方法が、他にあるような気がするのですが。
●国内ではロッドに、車地やラックなどを組み合わせ押し引きさせた例が多かった(『北上運河閘門めぐり…7』参照)ので、それを極限まで省いたのが、この形ということなのかしら? マイタゲートの開閉法で、私が見たかぎり最もチープで、それがゆえに珍しく、惹かれるものがありました!
●わずかとはえ、ディテールも検分してみましょう。特徴あるランボードの手すり、現在は帯材に穴を開けて、丸棒を通してから輪にしているつくりですが、これは原形をなぞったようですね。排水用スライドゲートの操作把手は、頭がT字形をしているのがわかるものの、単に上下させていたのか、スピンドルを回していたのかはわかりません。
●開閉用の棒、扉体との接合部はどうなっているのでしょう。ボールジョイントなんて気の利いたものはなかったでしょうから、見たところ穴を開けた帯材を立ち上げて、棒の先端には金具で輪を作り、ルーズに繋げていただけのように思われます。

●19年8月8日に撮った、牛島閘門後扉室。閘室は当時からのものを、大きな改修をせず流用したようですから、絵葉書と位置は変わりません。ただ、テラスが大きく前進し、おまけに橋も架けられたので、水際はすでに遠く、ずいぶん雰囲気は異なります。
●しかし、こうして絵葉書の写真で、竣工間もないころを眺めた後だと、復元に当たってオール電動化したことが、なおさら気になってきます。復元当初は、鼬川への定期航路立ち上げが計画にあって、ためにモーターライズが必須になったのかしら。
●イベント的な通航も絶えてなく、静態保存に限りなく近づいている現状では、ハテ? と首をひねるのが正直なところ。むしろ人力操作の方が、原形を忠実にという筋も立ち、しかも管理がぐっと楽になり、また通航体験としても、全国的に希少なやり方が、昔のまま保存されているということも手伝い、充実したものになったように思えます。
●まあ、扉体を押し引きする人のことを考えると、むしろ大変だとは思いますが‥‥。勝手なことをいい散らかして申しわけありません。以上、夏の夜の閘門バカ妄想でありました。

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富山港・知られざる閘門?!
●数日前のことです。昨年6月、富山訪問の際にお世話になった、松川遊覧船の中村珠太専務より、メールをいただきました。
さっそく開いてみると、酒田港訪問時の記事(恐らく『下瀬閘門跡を訪ねて』と思われます)を読んで、「ふと思い出した」ことがあり、メールをくださったとのことです。はて、何でしょうか?
●読み進むとまあ、驚くべきことが書いてありました!
要約すると‥‥。中村氏の著書「神通川の河川文化」(『松川遊覧船ふたたび…5』参照)で聞き取り取材をした、もと船頭さんの一人から聞いた話では、大雪で陸上交通が途絶した際、荷を積んだ舟で神通川本流の河口近くから、神通川と富山港の間に設けられた「水門」を通って、富岩運河に入った経験があったとのこと。
下瀬閘門の記事を読んで、この話を思い出された中村氏、国土地理院の空中写真を開き、終戦直後の富山港に、最上川~酒田港のそれとそっくりな位置に「水門」が存在していたことを確認、わざわざ知らせてくださったというわけです。
●中村氏は、ご親切に「水門」の位置を示す空中写真の複写ほか、資料を別便でお送りくださったのですが、船頭儀、もういてもたってもいられません。別便のファイルをダウンロードするより早く、富山の空中写真を横っ飛びに検索していました。

●興奮にハフハフしながら、昭和27年11月9日撮影の「USA-M192-2-60」を開くと‥‥。
あった! 富岩運河北口の西(赤矢印)、確かに切れ目のような部分が!

USA-M192-2-60(昭和27年11月9日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●閘 門 だ !‥‥よね?
何分不鮮明な空中写真、即断ははばかられますが、前扉室・後扉室としか見えない張り出しを持つその形、マイタゲートとしか思えません。‥‥いや、二重の角落しゲートという線も、捨てきれないかも(疑い深い船頭)。
西側のゲートは一見閉じているようですが、継ぎ目がなくツライチなところ、上下に伸びる道と軸線が合っていることから、ゲート上に設けられた道路橋と推察。
いや、全く知りませんでした! 富山第三の閘門(と早合点するのは危険ですが、違ったら後で訂正します!)があったなんて! 河川本流と、分離された河口港内の通船を図るという役割、港の奥部に位置するところも、下瀬閘門にそっくりなのがまた、興味をそそりますね!

MCB612-C31-30(昭和36年5月25日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●変遷を追ってみたくなり、近い年代の写真を探したものの、お次は昭和36年と、上の写真から9年を隔てたもののみでした。ご覧のとおり、早くも本流側が埋め立てられて、通船機能は失われていたことがわかります。
道路や橋が太くなっていることから、背割堤上の開発が進行していることもうかがえますね。

MCB702-C2-13(昭和45年5月22日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さらに9年後、昭和45年には、もはや神通川高水敷の凹部と、埋め立てた跡が生々しい更地に面影を残すのみ。東側には岸壁が完成しているものの、倉庫や山積みした資材らしきものが、閘室跡を避けているあたり、まだ埋土が締まっていないのでしょう。

ホンモノのGoogleマップで富山港の閘門(?)跡付近を見る(上は単なる画像)
●そして現在、跡形もなし‥‥。道が曲がっている地点は動いていないようなので、位置は何とか特定できますが、下瀬閘門と同様の運命をたどったのは、一目瞭然であります。
●さて、未知の閘門を知ったとなると、名前や諸元が知りたくなるのは当然の流れ。とりあえず手持ちの乏しい資料を何冊かひっくり返してみたものの、言及したものはありませんでした。挿画に富岩運河・東岩瀬港の計画図は2つ見つかったのですが、いずれも描画なし。ううん、当初の計画に入っていなかったのか、それとも閘門でなく、単なる水門付きの通船路なのか‥‥。
ウェブ上はいわずもがなで、中島・牛島両閘門のビッグネームに意識が吸い取られて(?)いるのか、いくつかアップされている東岩瀬・富山港の開発史にも、この閘門に触れたものは見当たりませんでした。当時の官報にでも丹念に当るか、地元の図書館を訪ねて工事記録を探すかしないと、詳細を知ることは難しそうです。
水運・港湾関係者以外、まず訪ねることのない地先にあったこと、昭和30年代と早期に廃止されていたことも手伝って、研究者・趣味者の目に触れることがないまま、消えていったのであろうと妄想。中島閘門を動態保存し、牛島閘門復元を成し遂げた、土木史跡に理解ある土地柄、正体がわかるのなら、せめて跡地に説明板でも立てて、顕彰してあげたいものですね。
●ちなみに、ご当地の中島・牛島両閘門とも、近傍の地名を名乗っていることから、これがもし閘門であるなら、草島閘門(Mapion地図)と名乗っていた可能性が高かろうと、勝手に妄想して悦に入っています。当たっていたら嬉しいな!
というわけで、今のところは何もわからず、閘門であるかどうかすら確定できないのですが、その分想像力をかきたてられ、興味はいや増すものがあります。 懇切にご教示くださった中村氏に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました!

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さっそく開いてみると、酒田港訪問時の記事(恐らく『下瀬閘門跡を訪ねて』と思われます)を読んで、「ふと思い出した」ことがあり、メールをくださったとのことです。はて、何でしょうか?
●読み進むとまあ、驚くべきことが書いてありました!
要約すると‥‥。中村氏の著書「神通川の河川文化」(『松川遊覧船ふたたび…5』参照)で聞き取り取材をした、もと船頭さんの一人から聞いた話では、大雪で陸上交通が途絶した際、荷を積んだ舟で神通川本流の河口近くから、神通川と富山港の間に設けられた「水門」を通って、富岩運河に入った経験があったとのこと。
下瀬閘門の記事を読んで、この話を思い出された中村氏、国土地理院の空中写真を開き、終戦直後の富山港に、最上川~酒田港のそれとそっくりな位置に「水門」が存在していたことを確認、わざわざ知らせてくださったというわけです。
●中村氏は、ご親切に「水門」の位置を示す空中写真の複写ほか、資料を別便でお送りくださったのですが、船頭儀、もういてもたってもいられません。別便のファイルをダウンロードするより早く、富山の空中写真を横っ飛びに検索していました。

●興奮にハフハフしながら、昭和27年11月9日撮影の「USA-M192-2-60」を開くと‥‥。
あった! 富岩運河北口の西(赤矢印)、確かに切れ目のような部分が!

USA-M192-2-60(昭和27年11月9日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●閘 門 だ !‥‥よね?
何分不鮮明な空中写真、即断ははばかられますが、前扉室・後扉室としか見えない張り出しを持つその形、マイタゲートとしか思えません。‥‥いや、二重の角落しゲートという線も、捨てきれないかも(疑い深い船頭)。
西側のゲートは一見閉じているようですが、継ぎ目がなくツライチなところ、上下に伸びる道と軸線が合っていることから、ゲート上に設けられた道路橋と推察。
いや、全く知りませんでした! 富山第三の閘門(と早合点するのは危険ですが、違ったら後で訂正します!)があったなんて! 河川本流と、分離された河口港内の通船を図るという役割、港の奥部に位置するところも、下瀬閘門にそっくりなのがまた、興味をそそりますね!

MCB612-C31-30(昭和36年5月25日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●変遷を追ってみたくなり、近い年代の写真を探したものの、お次は昭和36年と、上の写真から9年を隔てたもののみでした。ご覧のとおり、早くも本流側が埋め立てられて、通船機能は失われていたことがわかります。
道路や橋が太くなっていることから、背割堤上の開発が進行していることもうかがえますね。

MCB702-C2-13(昭和45年5月22日撮影・国土地理院・空中写真閲覧サービス)
●さらに9年後、昭和45年には、もはや神通川高水敷の凹部と、埋め立てた跡が生々しい更地に面影を残すのみ。東側には岸壁が完成しているものの、倉庫や山積みした資材らしきものが、閘室跡を避けているあたり、まだ埋土が締まっていないのでしょう。

ホンモノのGoogleマップで富山港の閘門(?)跡付近を見る(上は単なる画像)
●そして現在、跡形もなし‥‥。道が曲がっている地点は動いていないようなので、位置は何とか特定できますが、下瀬閘門と同様の運命をたどったのは、一目瞭然であります。
●さて、未知の閘門を知ったとなると、名前や諸元が知りたくなるのは当然の流れ。とりあえず手持ちの乏しい資料を何冊かひっくり返してみたものの、言及したものはありませんでした。挿画に富岩運河・東岩瀬港の計画図は2つ見つかったのですが、いずれも描画なし。ううん、当初の計画に入っていなかったのか、それとも閘門でなく、単なる水門付きの通船路なのか‥‥。
ウェブ上はいわずもがなで、中島・牛島両閘門のビッグネームに意識が吸い取られて(?)いるのか、いくつかアップされている東岩瀬・富山港の開発史にも、この閘門に触れたものは見当たりませんでした。当時の官報にでも丹念に当るか、地元の図書館を訪ねて工事記録を探すかしないと、詳細を知ることは難しそうです。
水運・港湾関係者以外、まず訪ねることのない地先にあったこと、昭和30年代と早期に廃止されていたことも手伝って、研究者・趣味者の目に触れることがないまま、消えていったのであろうと妄想。中島閘門を動態保存し、牛島閘門復元を成し遂げた、土木史跡に理解ある土地柄、正体がわかるのなら、せめて跡地に説明板でも立てて、顕彰してあげたいものですね。
●ちなみに、ご当地の中島・牛島両閘門とも、近傍の地名を名乗っていることから、これがもし閘門であるなら、草島閘門(Mapion地図)と名乗っていた可能性が高かろうと、勝手に妄想して悦に入っています。当たっていたら嬉しいな!
というわけで、今のところは何もわからず、閘門であるかどうかすら確定できないのですが、その分想像力をかきたてられ、興味はいや増すものがあります。 懇切にご教示くださった中村氏に、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました!

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