干拓博物館とカタブネ…3
(『干拓博物館とカタブネ…2』のつづき)

●船尾は戸立造りで、船底から平面が跳ね上がった形になっているのは、他の和船にもよく見られる構造ですが‥‥。舟の断面自体がほぼ矩形のため、のぞき込んだ戸立も、船尾、船底方向ともに絞りのない四角で、やはり初めて目にするカタチ。
機付きゆえの造りが、いくつか目にできるのも興味深いものが。舷縁近くの太い梁は、本来なかったものでしょう。水密隔壁の支えと、プロペラシャフトを引き上げるための、垂直に通るレバーを支える軸受けになっているのですね。戸立に開けられた丁字形の穴は、引き上げられたペラを避けるためのものに違いないと思えます。スロープで上架する、機付き和船にはよく見られた構造ですよね。
●しかし、舵軸を入れる穴が見当たりません。梁の穴を舵軸のそれとするには、ペラの位置が苦しく、また直径も稼げないような。2枚下の写真にあるように、船尾端にもそれらしき部分は見当たらなかったので、謎が残りました。

●船首周りを内側から見て。板組みのラインはまったく直線で、内側はほぼ垂直。外から見られた船首部の開きは、厚みを活かして削り出したような造りなのですね。天端に沿わされたガンネルに当たる縁材は、錆びた船釘の四角い頭が点々と出っ張ったままで、丁寧に埋め木をした船底、舷側とは対照的な、アバウトさが感じられます。
船首部最上部の内舷、他の箇所にくらべて、船釘の穴に施した埋め木の密度が桁違い。開きのある部分なので、波をさばいた際に力がかかるからでしょうか、接合に一段と手間をかけたように見受けられました。
●左舷後部から全体を見て。船尾材左舷寄りに、ログイがあったと思しき凹部は見えますが、舵軸のそれは見当たらず。艪を舵の代りにでもしていたのかなあ。
こうして眺めてみて、外観はまさにカタブネそのものながら、何らかの理由で刳舟構造を止め、完全な板組みに移行したものとお見受けしました(間違っていたらごめんなさい)。いわば、最末期の姿といってよいのでしょうか?
●ともあれ、今まで目にした地場の和船の中では、私の少ない見聞からとはいえ、群を抜いて"異形"さが際立っていた舟といえるでしょう。それだけに感動もまた、大きいものでした。ここに保存してくださった皆様には、感謝のほかありません。何分希少な舟、願わくば、いずれ屋内で保管されることを祈っております。
●見学後、博物館に隣接した「道の駅 おおがた」ものぞいて、お土産を物色。でも気になってしまうのは、やはりトリさんたちでした。
軒先では、まだぽやぽやのツバメのヒナが、元気よく鳴いて親鳥に餌をねだる姿が。周りは水田とあって、スズメの張りのある声もあちこちで聞かれ、人里で暮らす鳥たちにとって住みよい環境であることが感じられ、ほっこりしたのでした。

●帰りの道々、八郎潟干拓地らしい風景を目にしておきたいと、ちょっと脇に入って小休止。青々とした美田が見渡すかぎり広がる、清々しく雄大な景色! 来てよかった‥‥。
中央を走るのは、「H1幹線用水路」と名付けられた用水路。コルゲート板とアングル鋼材で組まれた、いわば巨大な樋ですね。周りの地表面と同じくらいか、少し高めの水面が貫いてゆくみずみずしい青田、実に魅力的な水路風景でした。
【参考文献】 丸木舟(ものと人間の文化史 98) 出口晶子著 法政大学出版局
(令和5年7月26日撮影)
(この項おわり)

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●船尾は戸立造りで、船底から平面が跳ね上がった形になっているのは、他の和船にもよく見られる構造ですが‥‥。舟の断面自体がほぼ矩形のため、のぞき込んだ戸立も、船尾、船底方向ともに絞りのない四角で、やはり初めて目にするカタチ。
機付きゆえの造りが、いくつか目にできるのも興味深いものが。舷縁近くの太い梁は、本来なかったものでしょう。水密隔壁の支えと、プロペラシャフトを引き上げるための、垂直に通るレバーを支える軸受けになっているのですね。戸立に開けられた丁字形の穴は、引き上げられたペラを避けるためのものに違いないと思えます。スロープで上架する、機付き和船にはよく見られた構造ですよね。
●しかし、舵軸を入れる穴が見当たりません。梁の穴を舵軸のそれとするには、ペラの位置が苦しく、また直径も稼げないような。2枚下の写真にあるように、船尾端にもそれらしき部分は見当たらなかったので、謎が残りました。

●船首周りを内側から見て。板組みのラインはまったく直線で、内側はほぼ垂直。外から見られた船首部の開きは、厚みを活かして削り出したような造りなのですね。天端に沿わされたガンネルに当たる縁材は、錆びた船釘の四角い頭が点々と出っ張ったままで、丁寧に埋め木をした船底、舷側とは対照的な、アバウトさが感じられます。
船首部最上部の内舷、他の箇所にくらべて、船釘の穴に施した埋め木の密度が桁違い。開きのある部分なので、波をさばいた際に力がかかるからでしょうか、接合に一段と手間をかけたように見受けられました。

こうして眺めてみて、外観はまさにカタブネそのものながら、何らかの理由で刳舟構造を止め、完全な板組みに移行したものとお見受けしました(間違っていたらごめんなさい)。いわば、最末期の姿といってよいのでしょうか?
●ともあれ、今まで目にした地場の和船の中では、私の少ない見聞からとはいえ、群を抜いて"異形"さが際立っていた舟といえるでしょう。それだけに感動もまた、大きいものでした。ここに保存してくださった皆様には、感謝のほかありません。何分希少な舟、願わくば、いずれ屋内で保管されることを祈っております。

軒先では、まだぽやぽやのツバメのヒナが、元気よく鳴いて親鳥に餌をねだる姿が。周りは水田とあって、スズメの張りのある声もあちこちで聞かれ、人里で暮らす鳥たちにとって住みよい環境であることが感じられ、ほっこりしたのでした。

●帰りの道々、八郎潟干拓地らしい風景を目にしておきたいと、ちょっと脇に入って小休止。青々とした美田が見渡すかぎり広がる、清々しく雄大な景色! 来てよかった‥‥。
中央を走るのは、「H1幹線用水路」と名付けられた用水路。コルゲート板とアングル鋼材で組まれた、いわば巨大な樋ですね。周りの地表面と同じくらいか、少し高めの水面が貫いてゆくみずみずしい青田、実に魅力的な水路風景でした。

(令和5年7月26日撮影)
(この項おわり)

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干拓博物館とカタブネ…2
(『干拓博物館とカタブネ…1』のつづき)

●左舷から見たところ。この角度からだと、舷縁のラインが反っているので割と普通の印象ですが、ほぼ垂直に立ち上がった舷側、船首もこれまた、半ばまでバーチカルステムといってよい形で、小型和船ではかつて目にしなかった異様さに息を呑んだものでした。
さて、説明板もないこの舟が、なぜカタブネだとわかったかをお話ししておかなくてはならないでしょう。丸木舟の項でも参考にさせていただいた出口晶子氏の「丸木舟」に、このカタブネが一項目を設け、写真・図面も併載の上詳述されていたからです。

●船首部分のアップ。垂直に立ち上がったミヨシ(船首材)は鉄板を巻いて補強されており、その上に開きをつけた上棚がぐっと突き出し、さらにそこへフタをするようにして厚みのある三角形の材がはめ込まれている構造。
プレートに書かれた船名「白第13号」、出口氏の著書に掲載された写真の舟にも「白第25号」というプレートが貼ってあったので、この地域の漁業組合の取り決めなどで、通し番号を振ってあったのかもしれません。
しかし‥‥船首からして直線的なこの造作、真横からのシルエットだけ見ると、前大戦時の米軍艦のようで、とても和船には思えません。これも八郎潟という水域なりの事情や、材の取り方などわけがあってこうなったものなのでしょうが、こうして実見した後でも、何か信じられない気持ちがぬぐい去れませんでした。
●舷側を観察。胴の間の平行な部分と、船首に向かってテーパーがついた舷側材の境目は、接合にカスガイが使ってあるのが目立ちました。
ところどころに逆台形の埋め木が見られるのは、船釘(落とし釘)を打ち込んだ箇所。平たく湾曲した釘で、縫い合わせるように板を接合し大きな平面をつくる技法は、他地域の和船と変わりません。かつてはチキリ(鼓型の木片)やタタラ(端面にダボとしてはめ込む木栓)で接合し、接着・防水には漆を使っていたそうです。

●胴の間をのぞき込んで。ほとんど開きのない、まことに四角い断面に、驚かされるばかり。梁はここに見えるたった2本で、これで形を維持しているのもまた驚きです。
そうそう、なぜカタブネが、「丸木舟」に詳述されていたかに触れていませんでした。このカタブネ、四角張った船型からは信じがたいでしょうが、オモキ(船底材)が左右2材から成る刳舟構造、複材刳舟なのです。
もっとも、今回拝見したこの舟は、胴の間の舷側底部にも、釘穴と見られる埋め木がいくつか見られ、内外から観察しても、板を突き合わせた構造に見受けられたので、後年修繕の際に板材に入れ替えたか、あるいは材の不足などで、元から板組みとして造られたのかもしれないですね。ご存じの方、この点ご指摘をいただきたいところであります。

●胴の間には、エンジンの架台がありました。一見華奢な板組みの和船に、馬力の割に大きく重かった当時の内燃機関を載せた際の造作が、こうしてつぶさに見られるとは。オモキに接した太い2本の角材で前後が補強され、手前にはプロペラシャフトが入る樋状の箱組みも見られ、さらに左舷には機関の長さだけ垣立で舷側高さを補いと、まあ興味深いこと。
架台の角材とその直下には、油が沁みたように黒くなっているところも見られ、現役時代を髣髴させるものが。ちなみにカタブネは漁のほか、収穫した稲や肥えとして刈った草の運搬にも活用されたそうで、いわば水郷のサッパに近い、農舟だったといってよいのでしょう。
浅く広大な八郎潟と、その流入河川を活動の場とした古様かつ異形の舟。今回実見して、自分の和船観に新たな一項目が加わった気分ではありました。
【参考文献】 丸木舟(ものと人間の文化史 98) 出口晶子著 法政大学出版局
(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…3』につづく)

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●左舷から見たところ。この角度からだと、舷縁のラインが反っているので割と普通の印象ですが、ほぼ垂直に立ち上がった舷側、船首もこれまた、半ばまでバーチカルステムといってよい形で、小型和船ではかつて目にしなかった異様さに息を呑んだものでした。
さて、説明板もないこの舟が、なぜカタブネだとわかったかをお話ししておかなくてはならないでしょう。丸木舟の項でも参考にさせていただいた出口晶子氏の「丸木舟」に、このカタブネが一項目を設け、写真・図面も併載の上詳述されていたからです。

●船首部分のアップ。垂直に立ち上がったミヨシ(船首材)は鉄板を巻いて補強されており、その上に開きをつけた上棚がぐっと突き出し、さらにそこへフタをするようにして厚みのある三角形の材がはめ込まれている構造。
プレートに書かれた船名「白第13号」、出口氏の著書に掲載された写真の舟にも「白第25号」というプレートが貼ってあったので、この地域の漁業組合の取り決めなどで、通し番号を振ってあったのかもしれません。
しかし‥‥船首からして直線的なこの造作、真横からのシルエットだけ見ると、前大戦時の米軍艦のようで、とても和船には思えません。これも八郎潟という水域なりの事情や、材の取り方などわけがあってこうなったものなのでしょうが、こうして実見した後でも、何か信じられない気持ちがぬぐい去れませんでした。

ところどころに逆台形の埋め木が見られるのは、船釘(落とし釘)を打ち込んだ箇所。平たく湾曲した釘で、縫い合わせるように板を接合し大きな平面をつくる技法は、他地域の和船と変わりません。かつてはチキリ(鼓型の木片)やタタラ(端面にダボとしてはめ込む木栓)で接合し、接着・防水には漆を使っていたそうです。

●胴の間をのぞき込んで。ほとんど開きのない、まことに四角い断面に、驚かされるばかり。梁はここに見えるたった2本で、これで形を維持しているのもまた驚きです。
そうそう、なぜカタブネが、「丸木舟」に詳述されていたかに触れていませんでした。このカタブネ、四角張った船型からは信じがたいでしょうが、オモキ(船底材)が左右2材から成る刳舟構造、複材刳舟なのです。
もっとも、今回拝見したこの舟は、胴の間の舷側底部にも、釘穴と見られる埋め木がいくつか見られ、内外から観察しても、板を突き合わせた構造に見受けられたので、後年修繕の際に板材に入れ替えたか、あるいは材の不足などで、元から板組みとして造られたのかもしれないですね。ご存じの方、この点ご指摘をいただきたいところであります。

●胴の間には、エンジンの架台がありました。一見華奢な板組みの和船に、馬力の割に大きく重かった当時の内燃機関を載せた際の造作が、こうしてつぶさに見られるとは。オモキに接した太い2本の角材で前後が補強され、手前にはプロペラシャフトが入る樋状の箱組みも見られ、さらに左舷には機関の長さだけ垣立で舷側高さを補いと、まあ興味深いこと。
架台の角材とその直下には、油が沁みたように黒くなっているところも見られ、現役時代を髣髴させるものが。ちなみにカタブネは漁のほか、収穫した稲や肥えとして刈った草の運搬にも活用されたそうで、いわば水郷のサッパに近い、農舟だったといってよいのでしょう。
浅く広大な八郎潟と、その流入河川を活動の場とした古様かつ異形の舟。今回実見して、自分の和船観に新たな一項目が加わった気分ではありました。

(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…3』につづく)

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干拓博物館とカタブネ…1
(『真山神社の丸木舟…4』のつづき)

●この旅の最後は、大潟村干拓博物館で締めくくることにしました。広大な八郎潟干拓地の中央西寄り、県道42号男鹿八竜線の通る大潟村の中心地に、「道の駅 おおがた」を併設した流れるような稜線を持つ建物が。
この日、天気は不安定で、晴れたり曇ったり、ときおり小雨がぱらつく空模様でしたが、ちょうど陽が差した瞬間に全景を望むことができ、白銀の屋根が輝くさまを見ることができました。
●展示内容はオフィシャルサイトをご覧いただきたいのですが、八郎潟の成り立ちや自然から、江戸時代より連綿と続いた干拓事業の歴史、そして戦後、国家事業としての干拓と大潟村の成立まで、広々とした館内で充実した展示を拝見。
個人的には、右写真奥に見える「大潟村先人顕彰コーナー」に惹かれるものがありました。功労者へのリスペクト、本当に大切ですよね。

●干拓工事の様子は、模型による情景で順を追って展示されています。排水機場、浚渫船、重機のたぐいと、どれも適度に簡略された好ましい感じのモデルで、楽しく拝見。頑丈そうなガラスケースに守られて、またメンテナンスや清掃も行き届いているのか、汚れや破損も見られないのが素晴らしいですね。
やはり最も惹かれたのが、先代の防潮水門の模型。西側の一部ながら、閘門もそれとわかるように造られ、よいものでした。可動橋を備えていた旨ひとこと説明があれば、なおよかったと思います。
●館内を堪能して、表に出てみました。屋外の庇の下に、干拓初期に使われた農機が展示されているからです。従来とは桁違いに広大な干拓地を沃野に変えるため、自動化・機械化が不可欠だったこの地の、いわば功労者であります。
一つ一つ木パレットに載せられ、説明板がついてはいるものの、だいぶ傷んでいるものもあって、いい扱いをされていない印象なのが残念。拝見しながら、庇の下を奥へ進んでゆくと‥‥。

●建物の端、ぎりぎり庇の下というわば辺境(?)に、木造舟が無造作に置かれているのを発見。駆け寄って思わず声を上げました。
これ、カタブネ(潟舟)じゃないか!
しかし、説明板ひとつ掲げられておらず、風雨にさらされる場所に腐朽しやすい木造舟を置くなど、展示にしては扱いが少々ぞんざいなような‥‥。何とも痛ましく、また哀れに思ったのが第一印象ではありました。
さておき、この出会いには感謝せざるをえません。真山神社に続いて、ご当地独特の木造和船に接することができたのですから!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…2』につづく)

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●この旅の最後は、大潟村干拓博物館で締めくくることにしました。広大な八郎潟干拓地の中央西寄り、県道42号男鹿八竜線の通る大潟村の中心地に、「道の駅 おおがた」を併設した流れるような稜線を持つ建物が。
この日、天気は不安定で、晴れたり曇ったり、ときおり小雨がぱらつく空模様でしたが、ちょうど陽が差した瞬間に全景を望むことができ、白銀の屋根が輝くさまを見ることができました。

個人的には、右写真奥に見える「大潟村先人顕彰コーナー」に惹かれるものがありました。功労者へのリスペクト、本当に大切ですよね。

●干拓工事の様子は、模型による情景で順を追って展示されています。排水機場、浚渫船、重機のたぐいと、どれも適度に簡略された好ましい感じのモデルで、楽しく拝見。頑丈そうなガラスケースに守られて、またメンテナンスや清掃も行き届いているのか、汚れや破損も見られないのが素晴らしいですね。
やはり最も惹かれたのが、先代の防潮水門の模型。西側の一部ながら、閘門もそれとわかるように造られ、よいものでした。可動橋を備えていた旨ひとこと説明があれば、なおよかったと思います。

一つ一つ木パレットに載せられ、説明板がついてはいるものの、だいぶ傷んでいるものもあって、いい扱いをされていない印象なのが残念。拝見しながら、庇の下を奥へ進んでゆくと‥‥。

●建物の端、ぎりぎり庇の下というわば辺境(?)に、木造舟が無造作に置かれているのを発見。駆け寄って思わず声を上げました。
これ、カタブネ(潟舟)じゃないか!
しかし、説明板ひとつ掲げられておらず、風雨にさらされる場所に腐朽しやすい木造舟を置くなど、展示にしては扱いが少々ぞんざいなような‥‥。何とも痛ましく、また哀れに思ったのが第一印象ではありました。
さておき、この出会いには感謝せざるをえません。真山神社に続いて、ご当地独特の木造和船に接することができたのですから!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…2』につづく)

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