北楯頭首工と北楯堰…2
(『北楯頭首工と北楯堰…1』のつづき)

●水路に沿って県道45号線を東へ進むと、やがて水路は90度近く流路を曲げ、県道の下をくぐって北上するかたちになりました。ここが先ほど、樋門を目にした地点です。
道から降りてみると、水路の屈曲に沈砂池らしい水面があって、それを囲むように3つの水門があり、そのうち一つは県道の下に至る本流を管制している造り。写真の水門がそれですが、目はすでに左の、古そうな樋門に吸い寄せられていました。往きの道路上からはわからなかったので、これは嬉しい伏兵です!

●5径間、コンクリート製ながら、竣工6~70年は下らない雰囲気。水路の改良とともに、上写真の新しい水門が完成したことで、すでに役目は終えたのでしょう、扉体や巻上装置はきれいに取り外されていました。
樋門の左右に伸びる護岸も石垣製で、この灌漑水路が古くから利用されてきたことを感じさせました。さて、せっかく出会ったのだから、せめて名前が知りたいところ。銘板や竣工記念碑のたぐいがあればと、周囲を嗅ぎ回ってみることに。

●裏側は管理橋というか、扉体を操作するための足場があつらえられていて、可愛らしい親柱もあったのですが、銘板のたぐいはなし。しかし、星霜を経たコンクリートの肌といい、鳥居を思わせる梁の張り出しといい、実に味がありますね。梁の天には、径間と同じ数だけセメントで塞いだ穴の跡が見られ、扉体を上下するスピンドルか何かが、梁を貫いていたことがわかりました。
県道を渡った東岸には、水神大権現を祀った小さな祠があり、お賽銭を奉納してご挨拶したものの、他に水路に関連した碑などは見当たらず、ちょっと拍子抜けした思い。
●ちなみに県道の橋(下写真)は、4枚の銘板があり、写真のものから反時計回りに「北楯堰橋」、「北楯大堰」、「きただてせきはし」、「昭和51年3月拡巾」とありました。
う~ん、「大堰」はいくらなんでも盛り過ぎだなあ、今の北楯頭首工に当たる、旧取水堰を指しているのかしら? それにしても、堰から遠く隔たった灌漑水路の樋門を渡る橋に、「大堰」の名を掲げるのはいかにも違和感があります。ハテ? この謎は、ずいぶん後に解明されることになりました。
●帰宅後、しばらくたってから検索してみると、「北楯大堰 周辺マップ」なる、カラー2ページのPDFがヒット。
それによると、どうも「北楯大堰」は、この灌漑水路そのものを指す呼び名のようだと知って、驚きました。さらに、慶長17(1612)年に開鑿された、実に竣功398年を数える歴史ある用水であり、しかも「日本の疏水百選」にも選ばれているとのこと。まあ何というか、三度ビックリとしかいいようがありませなんだ。
取水施設の名がそのまま水路名になっているとは、意外を通り越して斜め上の感がありましたが、一番知りたかったこの古い樋門の名は、PDFの地図でもなぜか触れられておらず、わからずじまい。何やら、モヤモヤ感のみ残ったという結末ではありました。
●というわけで、水路に関する遺物は見つからなかったものの、むしろ最初に引き寄せられたのがこちら。橋の西詰北側、山裾を小高く削平してあり、石碑らしいものもいくつかあって、非常に目立ちます。
左端にある石碑の碑文をざっと読み下してみると、この地は戊辰戦役の古戦場で、碑の右にいくつかある墓石は、この地で斃れた官軍兵士のお墓なのだそう。思わず手を合わせましたが、驚かされたのは賛助者の芳名に、首相時代の岸信介以下、当時の閣僚や山形県知事などが名を連ね、右端の大きな石碑も、岸首相の揮毫によるものだったことです。
そういえば、この北にある集落・清川も、幕末の活躍で知られる、清河八郎の生誕地なのだそうですね。頭首工や樋門に惹かれて、知らないうちに、濃厚な歴史スポットに迷い込んでいたというお粗末でした。
【撮影地点のMapion地図】
(27年11月22日撮影)
(『酒田港の官船二隻』につづく)

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●水路に沿って県道45号線を東へ進むと、やがて水路は90度近く流路を曲げ、県道の下をくぐって北上するかたちになりました。ここが先ほど、樋門を目にした地点です。
道から降りてみると、水路の屈曲に沈砂池らしい水面があって、それを囲むように3つの水門があり、そのうち一つは県道の下に至る本流を管制している造り。写真の水門がそれですが、目はすでに左の、古そうな樋門に吸い寄せられていました。往きの道路上からはわからなかったので、これは嬉しい伏兵です!

●5径間、コンクリート製ながら、竣工6~70年は下らない雰囲気。水路の改良とともに、上写真の新しい水門が完成したことで、すでに役目は終えたのでしょう、扉体や巻上装置はきれいに取り外されていました。
樋門の左右に伸びる護岸も石垣製で、この灌漑水路が古くから利用されてきたことを感じさせました。さて、せっかく出会ったのだから、せめて名前が知りたいところ。銘板や竣工記念碑のたぐいがあればと、周囲を嗅ぎ回ってみることに。

●裏側は管理橋というか、扉体を操作するための足場があつらえられていて、可愛らしい親柱もあったのですが、銘板のたぐいはなし。しかし、星霜を経たコンクリートの肌といい、鳥居を思わせる梁の張り出しといい、実に味がありますね。梁の天には、径間と同じ数だけセメントで塞いだ穴の跡が見られ、扉体を上下するスピンドルか何かが、梁を貫いていたことがわかりました。
県道を渡った東岸には、水神大権現を祀った小さな祠があり、お賽銭を奉納してご挨拶したものの、他に水路に関連した碑などは見当たらず、ちょっと拍子抜けした思い。
●ちなみに県道の橋(下写真)は、4枚の銘板があり、写真のものから反時計回りに「北楯堰橋」、「北楯大堰」、「きただてせきはし」、「昭和51年3月拡巾」とありました。
う~ん、「大堰」はいくらなんでも盛り過ぎだなあ、今の北楯頭首工に当たる、旧取水堰を指しているのかしら? それにしても、堰から遠く隔たった灌漑水路の樋門を渡る橋に、「大堰」の名を掲げるのはいかにも違和感があります。ハテ? この謎は、ずいぶん後に解明されることになりました。

それによると、どうも「北楯大堰」は、この灌漑水路そのものを指す呼び名のようだと知って、驚きました。さらに、慶長17(1612)年に開鑿された、実に竣功398年を数える歴史ある用水であり、しかも「日本の疏水百選」にも選ばれているとのこと。まあ何というか、三度ビックリとしかいいようがありませなんだ。
取水施設の名がそのまま水路名になっているとは、意外を通り越して斜め上の感がありましたが、一番知りたかったこの古い樋門の名は、PDFの地図でもなぜか触れられておらず、わからずじまい。何やら、モヤモヤ感のみ残ったという結末ではありました。

左端にある石碑の碑文をざっと読み下してみると、この地は戊辰戦役の古戦場で、碑の右にいくつかある墓石は、この地で斃れた官軍兵士のお墓なのだそう。思わず手を合わせましたが、驚かされたのは賛助者の芳名に、首相時代の岸信介以下、当時の閣僚や山形県知事などが名を連ね、右端の大きな石碑も、岸首相の揮毫によるものだったことです。
そういえば、この北にある集落・清川も、幕末の活躍で知られる、清河八郎の生誕地なのだそうですね。頭首工や樋門に惹かれて、知らないうちに、濃厚な歴史スポットに迷い込んでいたというお粗末でした。
【撮影地点のMapion地図】
(27年11月22日撮影)
(『酒田港の官船二隻』につづく)

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