加茂川・中海遊覧船に乗って…10
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』のつづき)
●深浦橋をふたたびくぐって、中海へもどります。
背後の山のせいでしょうか、この角度から見ると、瀬戸内や八代海あたりにありそうな、島々の間を分かつ狭水道のような雰囲気。行ったことがないので、こういう橋が架かっているのかはわかりませんが。
●湊山公園の南端角、スロープのある立派な桟橋が2本。鳥取大医学部が近くにありますから、ボート部のものかな?
だとすると、陸閘のある堤防を隔てた向こうの建物は、艇庫でしょうか。
●そしてその北側に伸びる、湊山公園のテラス、これは立派なものですね。中海に面して、南北500mに及ぶ水際ほとんど全てが、ご覧のとおり長大な階段状のテラスに! 水辺に開けた公園としては、国内有数の規模でしょう。
正面の水上に台船でも浮かべて、花火大会でもすれば、いちどきにたくさんの人が楽しめそう。
【撮影地点のMapion地図】

●疾走していた船がスロットルを戻すと、すでに旧加茂川の河口に近づいていました。先ほどここを出たときは気づかなかったのですが、右手に見える古い防波堤が、ひなびたいい感じの空気を醸し出しており、河口のささやかな船溜風景を、魅力あるものにしていたのです。
明治の末より前といいますから、もちろんこの防波堤ができるよりずっと昔のことでしょうが、阪鶴鉄道の運航する、舞鶴通いの汽船が米子を寄港地としており、賑わった時代もあったとのこと。
当時は汽船が横付けできる岸壁はなかったでしょうから、艀が港と本船の間を往復して、貨客を運んだことでしょう。今はひっそりとしているこの河口も、明治時代は艀がひしめいて、賑やかだったのではないでしょうか。

●そして、灘町橋をくぐった直後に開けた眺めにも、下ったときとは全く違った感動を覚えました。
屈曲の外側に肩を寄せ合う低い家並が、川面に姿を映すさまもさることながら、土地の低さからくるひたひた感、水路幅、そして街並みの上にかぶさる空の広さと、目に入るもの全てが塩梅よく、しっくりと収まった川景色に思えたのです。
うまく説明できないのがもどかしいのですが、修景や昔の復元でない町場の水路風景の、一つの理想形ともいえそうな何かを、この短い区間に感じてしまったのかもしれません。
(23年11月9日撮影)
(『21年2月6日の旧加茂川』につづく)

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背後の山のせいでしょうか、この角度から見ると、瀬戸内や八代海あたりにありそうな、島々の間を分かつ狭水道のような雰囲気。行ったことがないので、こういう橋が架かっているのかはわかりませんが。

だとすると、陸閘のある堤防を隔てた向こうの建物は、艇庫でしょうか。

正面の水上に台船でも浮かべて、花火大会でもすれば、いちどきにたくさんの人が楽しめそう。
【撮影地点のMapion地図】

●疾走していた船がスロットルを戻すと、すでに旧加茂川の河口に近づいていました。先ほどここを出たときは気づかなかったのですが、右手に見える古い防波堤が、ひなびたいい感じの空気を醸し出しており、河口のささやかな船溜風景を、魅力あるものにしていたのです。
明治の末より前といいますから、もちろんこの防波堤ができるよりずっと昔のことでしょうが、阪鶴鉄道の運航する、舞鶴通いの汽船が米子を寄港地としており、賑わった時代もあったとのこと。
当時は汽船が横付けできる岸壁はなかったでしょうから、艀が港と本船の間を往復して、貨客を運んだことでしょう。今はひっそりとしているこの河口も、明治時代は艀がひしめいて、賑やかだったのではないでしょうか。

●そして、灘町橋をくぐった直後に開けた眺めにも、下ったときとは全く違った感動を覚えました。
屈曲の外側に肩を寄せ合う低い家並が、川面に姿を映すさまもさることながら、土地の低さからくるひたひた感、水路幅、そして街並みの上にかぶさる空の広さと、目に入るもの全てが塩梅よく、しっくりと収まった川景色に思えたのです。
うまく説明できないのがもどかしいのですが、修景や昔の復元でない町場の水路風景の、一つの理想形ともいえそうな何かを、この短い区間に感じてしまったのかもしれません。
(23年11月9日撮影)
(『21年2月6日の旧加茂川』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…9
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…8』のつづき)

●船着場のあたりから、下流側を望んだところ。お城のあった飯山・湊山が正面に立ちはだかり、川面に緑の影を落とす水路風景。
ちょっと説明しがたいのですが、山の迫る可航水路にどういうわけだか弱いところがあり、前後の見通しを山に阻まれているというだけで、軽いコーフンを覚えてしまうのです。
●ここから城跡の石垣が見えますよ、という船頭さんのお勧めに従ってカメラを向けると、木々の間にちらりと石垣が。天守台でしょうか。
中村家の築いた米子城は、五層の大天守と四層の小天守、「連立天守閣」というそうですが、山陰随一といわれる威容を誇ったとのこと。明治の初めに取り壊されたそうですが、湊山をめぐる内堀とともに今も残っていたら、連立天守を仰ぎながらの堀割遊覧で賑わっただろうなあ…と妄想。

●錆色に塗られた鈑桁橋は、愛宕橋。南岸にある愛宕町から採られたものでしょう。その向こうに橋脚がチラリと見える橋は、新加茂川橋。こちらは本流になる前の河川名が残っていますね。
米子はこのタイプの橋が多いですね。鈑桁好きな人が多いのかしらと妄想させるくらい(笑)。
●屈曲の始め、山すそが開けゆくあたりに架かる、2径間のやはり鈑桁橋は、祇園橋。祇園町からの命名ですね。
川面がさざ波立っているのは、少し風が入ってきたこともありますが、我々の船が起こした引き波が鋼矢板の護岸に反射して、なかなか消えないためです。
●祇園橋の南詰近くに、沈船…というより転覆船を発見。新旧加茂川とも繋留船が非常に少なかったので、この程度のことでも目を奪われます。
ああ、船底にぜんぜん貝がついていない! 汽水といっても、淡水に限りなく近いレベルなのでしょう。フジツボの当たり年とやらで、船底塗装後ひと月もしないうちに、フジツボが再付着し始めた経験を持つ我が艇には、うらやましい環境であります。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』につづく)

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●船着場のあたりから、下流側を望んだところ。お城のあった飯山・湊山が正面に立ちはだかり、川面に緑の影を落とす水路風景。
ちょっと説明しがたいのですが、山の迫る可航水路にどういうわけだか弱いところがあり、前後の見通しを山に阻まれているというだけで、軽いコーフンを覚えてしまうのです。

中村家の築いた米子城は、五層の大天守と四層の小天守、「連立天守閣」というそうですが、山陰随一といわれる威容を誇ったとのこと。明治の初めに取り壊されたそうですが、湊山をめぐる内堀とともに今も残っていたら、連立天守を仰ぎながらの堀割遊覧で賑わっただろうなあ…と妄想。

●錆色に塗られた鈑桁橋は、愛宕橋。南岸にある愛宕町から採られたものでしょう。その向こうに橋脚がチラリと見える橋は、新加茂川橋。こちらは本流になる前の河川名が残っていますね。
米子はこのタイプの橋が多いですね。鈑桁好きな人が多いのかしらと妄想させるくらい(笑)。

川面がさざ波立っているのは、少し風が入ってきたこともありますが、我々の船が起こした引き波が鋼矢板の護岸に反射して、なかなか消えないためです。

ああ、船底にぜんぜん貝がついていない! 汽水といっても、淡水に限りなく近いレベルなのでしょう。フジツボの当たり年とやらで、船底塗装後ひと月もしないうちに、フジツボが再付着し始めた経験を持つ我が艇には、うらやましい環境であります。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…10』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…8
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…7』のつづき)

●深浦橋をくぐると、河道はぐっと北に屈曲し、木の生い茂った二つの独立丘陵に挟まれたコースへ。両岸に緑濃い高地を見上げながら、先の見通せない屈曲をまさに分け入る可航水路は、神田川を例外として、関東ではまずお目にかかれない貴重な川景色。私が航行した中で近いものがあるとすれば、三浦市の油壺湾でしょうか。
米子城の築かれた湊山には、山麓をぐるりと半周するかたちで内堀があったそう。北~東側は埋め立てられましたが、今遡上している加茂川の最下流部は、この内堀の南側部分を利用した区間でもあるのですね。
●北岸、湊山・飯山麓の河畔には遊歩道が整備され、何かオブジェのようなものがいくつか見られました。船頭さんによれば、これは「米子彫刻ロード」と呼ばれ、米子駅からここまでの道々に、彫刻家による作品が展示されているのだそう。
ご覧のように小高い場所に東屋も設けられて、河口風景を楽しむスポットしても悪くなさそう。彫刻を一つ一つ訪ねながら、水辺をお散歩するのも乙なものでしょう。
●南岸・祇園町の街並み。壁や瓦は新しくなっているものの、家々のかたちは昔の姿をとどめており、いかにもかつての町屋を思わせます。
船頭さんの解説では、この向こうにある感応寺は、若くして亡くなった大名、中村一忠の墓があるお寺だそうです。写真には写っていませんが、家並のすき間からちらりと山門が見えました。
●この間の景色は、下航時に見た方がより面白かったので、先に折り返し点を。ドーム球場のような米子コンベンションセンターの見えるあたりで、船は180°回頭します。
河道はほぼ南東を向き、上流方にも間近に、いくつかの峰を突きだす低い山並みが。山を望める川っていいなあ。

●ここは大工町(実にいい町名です!)のあたりでしょうか、護岸の柵が途切れたところ、スロープで低めたあたりにタイヤのフェンダーが。米子で初めて見る、川の船着場です。
釣り人さんの姿も見られるように、扉もなく気軽に利用できそうなつくり。ここから観光船を発着させる計画でもあるのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』につづく)

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●深浦橋をくぐると、河道はぐっと北に屈曲し、木の生い茂った二つの独立丘陵に挟まれたコースへ。両岸に緑濃い高地を見上げながら、先の見通せない屈曲をまさに分け入る可航水路は、神田川を例外として、関東ではまずお目にかかれない貴重な川景色。私が航行した中で近いものがあるとすれば、三浦市の油壺湾でしょうか。
米子城の築かれた湊山には、山麓をぐるりと半周するかたちで内堀があったそう。北~東側は埋め立てられましたが、今遡上している加茂川の最下流部は、この内堀の南側部分を利用した区間でもあるのですね。

ご覧のように小高い場所に東屋も設けられて、河口風景を楽しむスポットしても悪くなさそう。彫刻を一つ一つ訪ねながら、水辺をお散歩するのも乙なものでしょう。

船頭さんの解説では、この向こうにある感応寺は、若くして亡くなった大名、中村一忠の墓があるお寺だそうです。写真には写っていませんが、家並のすき間からちらりと山門が見えました。

河道はほぼ南東を向き、上流方にも間近に、いくつかの峰を突きだす低い山並みが。山を望める川っていいなあ。

●ここは大工町(実にいい町名です!)のあたりでしょうか、護岸の柵が途切れたところ、スロープで低めたあたりにタイヤのフェンダーが。米子で初めて見る、川の船着場です。
釣り人さんの姿も見られるように、扉もなく気軽に利用できそうなつくり。ここから観光船を発着させる計画でもあるのでしょうか。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…9』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…7
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…6』のつづき)

●帰路も岸壁の「第十八正洋丸」を見てみると…おおお、グラブをぶんぶん振り回して荷役中!
「ぶんぶん振り回す」というのが誇張でも何でもなく、まさにブーンという風切り音が聞こえてきそうな、爽快なまでの振り回しぶり。以前、砂町北運河で、プッシャーバージの「振り回し」に度肝を抜かれた(過去ログ『大迫力の荷役風景』参照)ことを思い出しました。
●旧加茂川河口近くからは、一隻のヨットが白帆を上げて出航してきました。ここにはマリーナがあるのですね。わずかな風をとらえて、穏やかな湖面をゆるゆると滑りくるさまは、まるで水鳥のよう。
「多島湖」中海で島をめぐりつつのセーリング、楽しいでしょうね。モーターボートなら、大橋川を抜けて宍道湖に遊び、さらに斐伊川など沿岸の各河川も訪ねることができるのですから、内水がお好きなボートオーナーには、実に魅力あふれる水域といえます。
●遊覧船は、これで出発地点に戻るわけではありません。
舵をやや南東に向けて、米子南部の山並目がけ快走することしばし、接しているように見えた谷間が開け、そこに赤い橋の架かっているのが望めるまでになりました。
●おお、これは格好のよい橋ですね、米子を訪れて初めて目にする、上部構造のある大型鋼橋だけに感動もひとしお。
橋は国道9号線・山陰道を渡す深浦橋。塗装がきれいなので新しく見えますが、「8/28 王国ニュースフラッシュ」(大山王国)によると、昭和34(1959)年の竣工なのだとか。

●深浦橋の構造を見上げながら、加茂川本流に突入。
そう、こちらは放水路「新加茂川」として開鑿され、後に加茂川本流となった区間。米子城址のある湊山を始め、緑濃い丘陵の間を縫うように走る水路とくれば、町場を流れる旧加茂川とは正反対の雰囲気が味わえそうで、楽しみです。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…8』につづく)

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●帰路も岸壁の「第十八正洋丸」を見てみると…おおお、グラブをぶんぶん振り回して荷役中!
「ぶんぶん振り回す」というのが誇張でも何でもなく、まさにブーンという風切り音が聞こえてきそうな、爽快なまでの振り回しぶり。以前、砂町北運河で、プッシャーバージの「振り回し」に度肝を抜かれた(過去ログ『大迫力の荷役風景』参照)ことを思い出しました。

「多島湖」中海で島をめぐりつつのセーリング、楽しいでしょうね。モーターボートなら、大橋川を抜けて宍道湖に遊び、さらに斐伊川など沿岸の各河川も訪ねることができるのですから、内水がお好きなボートオーナーには、実に魅力あふれる水域といえます。

舵をやや南東に向けて、米子南部の山並目がけ快走することしばし、接しているように見えた谷間が開け、そこに赤い橋の架かっているのが望めるまでになりました。

橋は国道9号線・山陰道を渡す深浦橋。塗装がきれいなので新しく見えますが、「8/28 王国ニュースフラッシュ」(大山王国)によると、昭和34(1959)年の竣工なのだとか。

●深浦橋の構造を見上げながら、加茂川本流に突入。
そう、こちらは放水路「新加茂川」として開鑿され、後に加茂川本流となった区間。米子城址のある湊山を始め、緑濃い丘陵の間を縫うように走る水路とくれば、町場を流れる旧加茂川とは正反対の雰囲気が味わえそうで、楽しみです。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…8』につづく)

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加茂川・中海遊覧船に乗って…6
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…5』のつづき)
●船はぐっとスロットルを開け、プレーニング状態で快走します。水面はあくまで鏡のようになめらかなので、まさに滑るような走りぶり、実に快適。
北側、旗ヶ崎の工業団地には、サイロやガスタンクも見られ、今まで眺めてきた川景色とは対照的な、近代的な港湾都市としての一面も感じられました。
●前方にぽかりと二つ、緑をいただいた島が見えてきました。船頭さんいわく、右が粟島、左が萱島だそう。もっとも粟島は、周囲が干拓されて陸に取りこまれ、すでに島ではなくなっているのだとか。
帰宅してから地図を見てみると、中海は北部にある大根島、江島を代表格に、弁慶島、亀島、沖俎岩、松島などの小島が散在する、多島海ならぬ「多島湖」としての一面も持っているのですね。

●進行方向右手、安来市側の八尋鼻なる岬に、櫓状の施設を発見。「米子湾観測所 建設省」とありました。もっとも、米子の「子」の字は落ちてしまっていましたが。
験潮所…イヤ、湖ですから、水位観測所というべきですか。しかし、中海の最奥部は「米子湾」と呼ばれていたのですね。知りませんでした。

●船は萱島にぐっと接近して、水際の岩場や木々のディテールが判別できるほどになりました。こういういかにも上陸してみたくなるような、グッとくるサイズの小島って、自艇で見ることのできたのは、横須賀の猿島と勝山の浮島くらい。小島を間近にできるというだけで、もう何かわくわくしてきます。
船頭さんによれば、かつてこの島には、美人と評判の女主人が切り盛りする料理屋があり、鼻の下を伸ばした男たちが足繁く舟で通ったため、繁盛したと伝えられているのだとか。
もちろん現在は無人島ですが、船着場や住居跡などの遺跡が探索できそうで、別の意味でそそられるものがありますね。
●船は萱島の周りを半周して、弓ヶ浜半島南岸との間の狭水道を抜け、東へ反転。薄日を反射した群雲の向こうに、半身を隠した大山を望み、これまた結構な眺めです。
地図を見てみると、米子市と安来市との境界は半島南岸ギリギリを走っており、萱島は安来市側なのですね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…7』につづく)

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北側、旗ヶ崎の工業団地には、サイロやガスタンクも見られ、今まで眺めてきた川景色とは対照的な、近代的な港湾都市としての一面も感じられました。

帰宅してから地図を見てみると、中海は北部にある大根島、江島を代表格に、弁慶島、亀島、沖俎岩、松島などの小島が散在する、多島海ならぬ「多島湖」としての一面も持っているのですね。

●進行方向右手、安来市側の八尋鼻なる岬に、櫓状の施設を発見。「米子湾観測所 建設省」とありました。もっとも、米子の「子」の字は落ちてしまっていましたが。
験潮所…イヤ、湖ですから、水位観測所というべきですか。しかし、中海の最奥部は「米子湾」と呼ばれていたのですね。知りませんでした。

●船は萱島にぐっと接近して、水際の岩場や木々のディテールが判別できるほどになりました。こういういかにも上陸してみたくなるような、グッとくるサイズの小島って、自艇で見ることのできたのは、横須賀の猿島と勝山の浮島くらい。小島を間近にできるというだけで、もう何かわくわくしてきます。
船頭さんによれば、かつてこの島には、美人と評判の女主人が切り盛りする料理屋があり、鼻の下を伸ばした男たちが足繁く舟で通ったため、繁盛したと伝えられているのだとか。
もちろん現在は無人島ですが、船着場や住居跡などの遺跡が探索できそうで、別の意味でそそられるものがありますね。

地図を見てみると、米子市と安来市との境界は半島南岸ギリギリを走っており、萱島は安来市側なのですね。
【撮影地点のMapion地図】
(23年11月9日撮影)
(『加茂川・中海遊覧船に乗って…7』につづく)

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