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「保立食堂」で通運丸に出会う!

(『ホワイトアイリスに乗って…4』のつづき)

92021.jpgホワイトアイリスを降りた後は、土浦駅の土産物店で買い物をし、遅い昼食をとろうと、お店の人に紹介してもらったところへ。
その場所は、国道125号線の中央1丁目交差点角筈。土浦城址もほど近い旧市街で、蔵をともなった重厚なつくりの商家がいまなお残る街です。

交差点に立ってふと南を見ると、左側に国道と平行した細い道が続き、その道と国道に挟まれて、家並が一列縦隊に連なる、妙な街割(失礼)なのに気づきました。
ううむ、もしかして、国道はかつて川で、左の道が本道だったのでは? と妄想させるものがあったのですが、これは後で、当たらずといえども遠からずだったことがわかりました。

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これが老舗天ぷら店「保立食堂」! おおお、これは古そうですね、昭和戦前どころか、それ以前からの建物かもしれません。期待に胸をふくらませて店内に入ると、太い梁が走る黒光りした天井、壁には八角時計がボンボンと時を告げ、星霜を経た味わいがてんこ盛り。やはりご当地の名物、レンコンが入ったものを食べてみたいと思い、野菜天丼を注文。美味しくいただきました。

腹くちくなって、店内を改めて見回し気づかされたのが、壁のそこここに、額装された水彩画がいくつも掲げられていたこと。題材は河岸など水辺の風景が多く、どうやらかつての土浦を描いたもののようです。淡い、ホッとさせるような色使いも手伝って、興味深く拝見していると、その中の一枚に、

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まぎれもない通運丸の絵が!

いや~、まさかここで、しかも絵という形で、通運丸に出会えるとは思ってもいなかったので、感激でした! 昭和初期にはその姿を消したと思われる通運丸を、かつての土浦の風景として記憶し、絵に再現してくださった方がおられたことが、たまらなく嬉しかったのです。

川口の土浦港を出港する風景でしょうか。外輪カバーには「第十六通運丸」とあり、煙突の白線1本、後部の屋根上には荷物が積まれているところや、甲板室の妻板に救命浮環が掛けられているあたり、船体のディテールもしっかり押さえられていて、杭の列や端舟を配した構図とともに、実見した方の筆によることを思わせる、リアルさのある絵となっています。

許可をいただいて、写真を撮らせていただいた後、ご主人にお話をうかがうことができました。これらの絵は、大正生まれの先代ご当主、つまりご主人の父上が趣味で描かれたもので、河岸の絵は昭和の初めまでお店の前を流れていた、川口川があったころの風景だそう。やはり!

92024.jpg何しろ、お店の前の角には、ここにかつて架かっていた、桜橋の親柱が残されているくらいで、川とはかかわりの深い土地柄だったのです。ちなみに、左側の小さな石碑は、旧土浦町道路元標だそう。まさに中心地だったのですね。

お店の格子に掲げられていた案内板「うんちく板」と、向かいに立っていた説明板「フィールド博物館・土浦」によると、桜橋の初代橋は慶長9年、水戸街道整備にともなう幕府の直轄工事で造られ、橋名の由来は、中世、桜川の本流がここを流れていたことによるそう。

川口川は昭和10年に暗渠化され、交差点直下には何と、明治34年竣工のレンガアーチの桜橋が、そのまま埋められているとのこと。江戸時代は重要な「公儀橋」だったのですね。レンガアーチが埋まっている、というあたりも惹かれるものがあります。

92025.jpgご主人のお話に戻ると、江戸時代からご当地で商いをされている古い家柄で、現在の食堂は明治2年の創業。建物も道路拡張などで若干の改造があったものの、創業当時以来のものだそう。140年以上の歴史があるのですね!

トタン屋根は、ハイカラ好きの創業者が、国産品がない時代に高価な輸入品を使って葺き替えたもので、ご主人によれば「重い瓦屋根のままだったら、震災のときに崩れてしまった」だろうとのこと。ご近所にも、震災以来いまだ瓦屋根の修復がかなわず、ブルーシートを掛けたままの旧家も目立ちましたから、このお話は特に印象に残りました。

かつて川口川が流れていたころは、お店の前を港からの荷を積んだ伝馬船が遡り、賑やかな河岸風景が展開されていたことでしょう。

水運時代を、間近に眺めてきた保立食堂! かつての土浦における、河岸のフネブネや通運丸の記憶を伝える場所としては、これ以上のものはないように思えました。
撮影地点のMapion地図

(24年5月4日撮影)

(『霞ポート水門と管理橋…1』につづく)

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タグ : 通運丸保立食堂