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大河津の絵葉書

(『雨の大河津にて…2』のつづき)

お次は洗堰と閘門を訪ねた話を‥‥と思っていたのですが、消え失せてしまった旧洗堰併設の初代閘門の絵葉書を、一枚なりともブログ上に掲げて姿を留めておきたいものだと、古絵葉書のアルバムを繰りはじめたところ‥‥う~ん、楽しい(笑)。

そんなわけで、他にも竣工当初を偲ばせ、また興趣をそそるものが出てきたこともあり、一枚で済ますのが惜しくなってきたのです。大河津を訪ねたばかりの興奮冷めやらぬタイムリーさにも背中を押され、5枚を選んで悦に入ることにしました。

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(信濃川分水工事)竣功シタル大河津閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。


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内務省新潟土木出張所工事状況 五千石閘門
宛名・通信欄比率2:1、明治40年4月~大正7年3月の発行。
(年賀葉書として使用、通信欄に『大正七年正月』のゴム印あり。『新潟靑木製』の銘)


一枚目が一応の竣工を迎えた初代閘門、二枚目が工事中の姿で、建物の様子から見て、どちらもほぼ同じ位置から撮ったもののようです。大河津の諸施設の竣工は公式には大正11年ですが、閘門はそれより数年早く、通船はしないまでも、外観が整うレベルの工事を終えていたのでしょうか。

ご覧のとおりマイタゲート、閘室両岸は石組みの法面という構成で、大河津資料館のサイトによると、閘室長60.6m、幅員(径間?)10.9mで大正14年の竣工。昭和46年に、ローラーゲートの二代目閘門が完成していますから、恐らくその時点をもって引退したのでしょう。

何より気になったのが、二枚目のキャプションに「五千石閘門」という名前が出てきたこと。手元に何枚かあるこの閘門を写した絵葉書のうち、「五千石」なる名称が記されたのはこの一枚のみで、入手した当時は「えっ、そういう名前だったの?」と驚かされたものでした。

地図を見てみたら、今の大河津分水さくら公園から北、分水東岸に沿った広大なエリアの地名が「五千石」なのですね。この閘門が正式にそう名付けられたかは確認していませんが、いかにも穀倉地帯といった豪気さがあって、よく似合うじゃないですか。


256013.jpg
(信濃川分水工事)第一洗堰
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


こちらは旧洗堰の工事中の様子をとらえた着色写真。「鋼製ゲート百選」(技報堂出版)によると、一つの径間は4.15m、当初は高さ2m余の扉体と角落しで越流させていたのが、改修を経て扉高3.1mのローラーゲートとなり、下端から放流するタイプに変わったとのこと。保存されているのは、この最終状態のゲートですね。27径間が並ぶ圧倒的な光景は、築造当初からさぞ耳目を集めたことでしょう。

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(大河津分水)自在堰全景
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。


昭和2年6月に洗堀で陥没した、初代の自在堰の姿。堰柱天端に建てられた、ごつい送電鉄塔群の方が目立つ外観は、昨今のゲートを見慣れた目には珍しく映りますね。河岸沿いに、当時の堰柱の一つが遺構として現存しているそうです。ベア・トラップ式ゲートの構造については、大河津資料館のサイトに図説されています。

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飛行機上ヨリ見タル舊分水自在堰地蔵堂町及近村全景(地蔵堂商工會發行)
宛名・通信欄比率1:1、大正7年4月以降の発行。
(切手欄に『NIIGATA AOKI PRINTING CO.』の銘あり)


最後に、大河津一帯を収めた航空写真の絵葉書を紹介しましょう。キャプションにある地蔵堂は、JR越後線分水駅近くに今も残る地名ですが、この当時に航空写真の絵葉書を作るほど、商工会に威勢があったことを感じさせます。

中央やや左から分水の自在堰、その右下に洗堰、そのさらに下には初代閘門と、分水竣工間もなくの諸施設の位置関係が見て取れます。閘門のすぐ下、「舊分水自在堰」という書き方からすると、この絵葉書は自在堰が壊れた、昭和2年6月以降の発行かもしれません。

【追記】
アップしたのをすっかり忘れていました‥‥。「アルス『河川工学』に涙する」で紹介した「閘門主要寸法」によると、大河津の初代閘門は扉室幅10.9m、閘室長60m、有効長72mと、資料館のサイトと微妙に異なる数字。その他の寸法もリンク先の記事に表がアップしてあります。

(『雨の大河津にて…3』につづく)

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タグ : 信濃川大河津分水五千石閘門閘門絵葉書・古写真