真山神社の丸木舟…4
(『真山神社の丸木舟…3』のつづき)
●こちらの展示写真は、手斧での中刳から仕上げ、舟下しの神事まで。窓枠の上には、祝詞の奉詠が全文掲げられていました。凄い‥‥。
刳舟の工作というと、力がかかって割れたりしないよう、燃やして炭化したところを削り取るのかと思い込んでいたのですが、ほぼ生木のまま切り出して刳り、完成後はすぐに使うのだそう。何年もかけて原木の脂抜きをする、板組みの舟とは大いに異なるところです。

●展示された図版の中には、奉納された丸木舟の木割図(の複写かな)もありました! 差し障りがあるので写真のサイズは小さくしておきますが、反りまで含めた天地が最大2尺3寸5分、長さが最大21尺5寸、原木の円周は17尺まわらなければ(舟が)できない‥‥などとメモしてあり、大いに参考になりました。
ちなみに、製作者は船大工のほか、器用な人であれば使用者自身が造ることもあったそう。何分数十年以上は持つという、寿命がえらく長いものなので、新造舟が継続してあるわけもなく、ために建造を経験した人が、つねにいるわけではなかったということでしょう。経験者ではなく、残された現物によって、伝承された側面も少なくないようです。

●丸木舟の建造に足る、円周17尺‥‥5.15mを超える杉となると、樹齢は300年ではきかない大木です。さらにその中から、目が詰んでいて割れやウロのない、舟造りに適したものとなればさらに少なく、材として貴重極まりないものだったでしょう。まして、建材、船材に木材の利用が盛んだった、近代以前においておや。
古木を豊かに蔵する人跡もまれな峻険な山が、水辺の間近に迫っているというこれまた希少な条件でなければ、成立しえなかったのが男鹿の丸木舟なのですね。
●展示を拝見した参拝者休憩所では、「男鹿の丸木舟 男鹿と海の生活」と題した三つ折りの配布物を頂戴しました。
男鹿の地勢から説き起こし、丸木舟の特性や使用法、搭載された船具、漁具の解説、そして現役時に採寸された戸賀塩浜の丸木舟を描いた実測図など、小さいながら充実した内容。興味のある向きは展示とともに、ぜひご覧になることをお勧めしたいです。

●すでに長く公開されているものに、"新発見"じみた興奮をするのもおこがましいかぎりですが、たまたま真山神社をお参りしたご縁に恵まれて、楽しく、また目を見開かれたひとときでした。ご親切にご対応いただいたご神職に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました!
【参考文献】 丸木舟(ものと人間の文化史 98) 出口晶子著 法政大学出版局
(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…1』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】

刳舟の工作というと、力がかかって割れたりしないよう、燃やして炭化したところを削り取るのかと思い込んでいたのですが、ほぼ生木のまま切り出して刳り、完成後はすぐに使うのだそう。何年もかけて原木の脂抜きをする、板組みの舟とは大いに異なるところです。

●展示された図版の中には、奉納された丸木舟の木割図(の複写かな)もありました! 差し障りがあるので写真のサイズは小さくしておきますが、反りまで含めた天地が最大2尺3寸5分、長さが最大21尺5寸、原木の円周は17尺まわらなければ(舟が)できない‥‥などとメモしてあり、大いに参考になりました。
ちなみに、製作者は船大工のほか、器用な人であれば使用者自身が造ることもあったそう。何分数十年以上は持つという、寿命がえらく長いものなので、新造舟が継続してあるわけもなく、ために建造を経験した人が、つねにいるわけではなかったということでしょう。経験者ではなく、残された現物によって、伝承された側面も少なくないようです。

●丸木舟の建造に足る、円周17尺‥‥5.15mを超える杉となると、樹齢は300年ではきかない大木です。さらにその中から、目が詰んでいて割れやウロのない、舟造りに適したものとなればさらに少なく、材として貴重極まりないものだったでしょう。まして、建材、船材に木材の利用が盛んだった、近代以前においておや。
古木を豊かに蔵する人跡もまれな峻険な山が、水辺の間近に迫っているというこれまた希少な条件でなければ、成立しえなかったのが男鹿の丸木舟なのですね。

男鹿の地勢から説き起こし、丸木舟の特性や使用法、搭載された船具、漁具の解説、そして現役時に採寸された戸賀塩浜の丸木舟を描いた実測図など、小さいながら充実した内容。興味のある向きは展示とともに、ぜひご覧になることをお勧めしたいです。

●すでに長く公開されているものに、"新発見"じみた興奮をするのもおこがましいかぎりですが、たまたま真山神社をお参りしたご縁に恵まれて、楽しく、また目を見開かれたひとときでした。ご親切にご対応いただいたご神職に、改めて御礼申し上げます。ありがとうございました!

(令和5年7月26日撮影)
(『干拓博物館とカタブネ…1』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】
真山神社の丸木舟…3
(『真山神社の丸木舟…2』のつづき)

●船首周りのアップ。頼もしいほどの厚みは、暗岩・洗岩が無数にあるご当地の海で、ワカメ、タコ、ナマコなどの採集をするこの種の舟にとって、なくてはならないもの。曲面に従って紋様を変えてゆく木目も面白く、ところどころに施された埋め木とともに、ふんふんと眺めまわすことしばし。
気になったのは、両舷を貫く穴が開けられていること。通常の和船であれば、貫木(かんのき)という、今でいうボラードやクリート的な使い方をする部材が貫通して設けられるところで、川舟であれば瀬張棒、岸から押すための横材が通されるところ。
●丸木舟(男鹿なび)の写真にあるように、現存している丸木舟にはどれもこの穴があるようですが、貫木を通した写真は残念ながら手元の資料にもなく、実際にどんな使われ方をしたのかはわかりませんでした。
しかし、このリンク先にある「機付き丸木舟」の写真、長年にわたり使われた現役時の様子が記録されて、実にいい一枚ですね! ザクザクに割れた船首(これは奉納の単材刳舟と違い、複材刳舟のようでしたが)をカスガイで補修を重ね、ガンネルを別材で沿わせて補強しと、磯の厳しい環境とともに、"使い倒された"さまが伝わってきて、その堅牢さにも感じ入ったものでした。

●ひとしきり盛り上がったところで、ご神職から、後ろの休憩所に丸木舟建造時の展示があるので、ご覧になったらとこれまた嬉しいお勧めが。社務所の側面に回ってみると、なるほど「参拝者休憩所」と書かれた小さな看板が掲げられ、扉は開け放たれています。図録みたいなものもあるかしら‥‥。
入口の右手には、「なまはげ柴灯まつり実施本部」「日本海域文化研究所」という墨痕鮮やかな表札も掲げられ、崇敬者や研究家の拠点となっていることもうかがえます。お邪魔してみましょう。

●おお! 古びて褪色してはいるものの、原木の切り出しから作業前の神事、粗削りと丸木舟の建造風景が、順を追って写真で展示されているじゃないですか! これは素晴らしい。
最末期に現役だった丸木舟たちは、昭和30年代に営林署から数本払い下げられた官木で、いっせいに造られたものだったそう。とすると、存命の船大工による復元建造としては、平成初期がぎりぎりの時期だったことでしょう。
船外機を備え、つい最近まで磯にあった丸木舟たち! その身上である長寿命があってこそ、研究家の目に留まり、こうして後世に伝えることができた、といってもよさそうですね。
●展示資料の片隅に「現代に甦る古代舟 男鹿の丸木舟展 ―丸木舟の製作とその漁―」というタイトルが掲げられていました。その奥にはあいさつ文もあり、平成6年4月10日の日付が。
主催は表札にあった日本海域文化研究所、展示は秋田県立男鹿水族館とありました。やはり、経験者が存命だったであろう平成の初めというあたり、関係者の決断と伝承の熱意が伺えて、胸が熱くなる思いがしたものでした。
【参考文献】 丸木舟(ものと人間の文化史 98) 出口晶子著 法政大学出版局
(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…4』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】

●船首周りのアップ。頼もしいほどの厚みは、暗岩・洗岩が無数にあるご当地の海で、ワカメ、タコ、ナマコなどの採集をするこの種の舟にとって、なくてはならないもの。曲面に従って紋様を変えてゆく木目も面白く、ところどころに施された埋め木とともに、ふんふんと眺めまわすことしばし。
気になったのは、両舷を貫く穴が開けられていること。通常の和船であれば、貫木(かんのき)という、今でいうボラードやクリート的な使い方をする部材が貫通して設けられるところで、川舟であれば瀬張棒、岸から押すための横材が通されるところ。
●丸木舟(男鹿なび)の写真にあるように、現存している丸木舟にはどれもこの穴があるようですが、貫木を通した写真は残念ながら手元の資料にもなく、実際にどんな使われ方をしたのかはわかりませんでした。
しかし、このリンク先にある「機付き丸木舟」の写真、長年にわたり使われた現役時の様子が記録されて、実にいい一枚ですね! ザクザクに割れた船首(これは奉納の単材刳舟と違い、複材刳舟のようでしたが)をカスガイで補修を重ね、ガンネルを別材で沿わせて補強しと、磯の厳しい環境とともに、"使い倒された"さまが伝わってきて、その堅牢さにも感じ入ったものでした。


入口の右手には、「なまはげ柴灯まつり実施本部」「日本海域文化研究所」という墨痕鮮やかな表札も掲げられ、崇敬者や研究家の拠点となっていることもうかがえます。お邪魔してみましょう。

●おお! 古びて褪色してはいるものの、原木の切り出しから作業前の神事、粗削りと丸木舟の建造風景が、順を追って写真で展示されているじゃないですか! これは素晴らしい。
最末期に現役だった丸木舟たちは、昭和30年代に営林署から数本払い下げられた官木で、いっせいに造られたものだったそう。とすると、存命の船大工による復元建造としては、平成初期がぎりぎりの時期だったことでしょう。
船外機を備え、つい最近まで磯にあった丸木舟たち! その身上である長寿命があってこそ、研究家の目に留まり、こうして後世に伝えることができた、といってもよさそうですね。

主催は表札にあった日本海域文化研究所、展示は秋田県立男鹿水族館とありました。やはり、経験者が存命だったであろう平成の初めというあたり、関係者の決断と伝承の熱意が伺えて、胸が熱くなる思いがしたものでした。

(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…4』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】
真山神社の丸木舟…2
(『真山神社の丸木舟…1』のつづき)

●思わず駆け寄って、しみじみと眺めてしまいました。舷側に板材をはぎ合わせて高さを加えるのでもなく、ましてや前後に二材を次いで長手に伸ばすのでもない、正真正銘の単材刳舟です! 長さは5~6mあるでしょうか?
男鹿半島は種子島と並んで、国内最後の単材刳舟製作地と聞いていましたから、かつて実際に使っていたものを奉納したのでしょうか。神社のあるこの真山は、山頂付近に船材となる杉を産出した、いわばゆかりの地でもあり、ここに収蔵されたのも不自然ではないと、一人納得。ちなみに地元では、エグリブネまたは、艫(とも、船尾)を箱型に造ったことから、トモプトと呼ばれていたそうです。

●周りをうろうろと歩き回りながら、のぞき込み、撫で回しと興奮のあまりとはいえやりたい放題(申しわけございません)。中でも目を奪われたのが、この、ハイオ(艪をつなぐ細縄)のいわばアイ。
何ていうんでしょう、彫塑感とでもいうのでしょうか。粘土をこねて作ったような、ぬめっとした曲線で舷側の壁面から出っ張っているこのパーツ‥‥これが後付けでなく、一材から削り出されたことが信じられないような見事な造形。これは専門書の図版や写真で読み取れない部分で、百聞は一見に如かずだなあと、しみじみしたのでした。
●一材から刳り抜いた、このまろやかな曲面! いいですねえ。中には2本の艪が横たえられていました。ロウデが途中からぐっと細くなる独特の形状です。艪の材は樫で、男鹿半島に産しないため、かつては遠く富山県新湊から取り寄せたそう。
撫で回しながらハフハフしていたら、御神札所におられた女性のご神職が、にこやかに説明して下さいました。
●いわく、およそ3t(4tだったかな? ごめんなさい)の重さがある原木から削り出し、舟の重さは約1tであること、この舟は実際に使われていたものはないが、技術伝承・保存のため専門の船大工が造ったものであること‥‥など、など。実によくご存じで、神社にとっても重要な奉納品であることが実感されたものでした。
●先ほどの"アイ"と並んで、感じ入ったのがここ。舷側の欠損を修理したのでしょう、三角に近い形の巨大な埋め木が、美しい仕上げの補修面を見せていました。
落とし釘を打ったと思しき、天端の3ヶ所ある埋め木にも、素材に働きかけ、力の伝達を考えた匠の技を思わせて、まことに佳きディテールです。丸木舟はこうしたまめな修繕で、百年近い寿命を保ったそうですから、むべなるかなとうなずきつつ撫で回したものでした。
●ここですかさず、ご神職からコメントが。この埋め木は実際の破損部でなく、補修の技法を保存・伝承するため、"わざと"施されたとのだそう! イヤ、携わられた方々の熱意もさることながら、微に入り細をうがった部分まで伝承への執念が行き届いていること、頭が下がる思いがしたものでした。

●艫(とも)周りを低い目線で。左舷側にログイ(艪の支点)があるのは、私の艇と同様。天端近くに張り出しが削り出され、艫の平面から船底に至るあたりは、これもきれいな曲面を描いています。大木の年輪が、そのまま造形の表面に浮き出たさま、板組みの和船では見られないディテールを堪能。
しかし、上部から年輪の中心に向けて、ひび割れが育ちつつあるのが残念ですね。長期間架台に載せられているので、無理な力がかかったこともあるのでしょうか。ちなみにかつての丸木舟は、新造後2ヶ月ほどの間、乗らないときは船内に水を張り、ひび割れを防いだとのことです。
ご神職のお話にもあったように、通常の板組みの和船よりはるかに手間がかかり、かつ材を消費するある意味贅沢な舟ではあるのですが、男鹿沿岸の風土には不可欠なタイプとして、長きに渡り重用されてきたものだったのでしょう。
次回、そのあたりをまとめられればと思います。
【参考文献】 丸木舟(ものと人間の文化史 98) 出口晶子著 法政大学出版局
(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…3』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】

●思わず駆け寄って、しみじみと眺めてしまいました。舷側に板材をはぎ合わせて高さを加えるのでもなく、ましてや前後に二材を次いで長手に伸ばすのでもない、正真正銘の単材刳舟です! 長さは5~6mあるでしょうか?
男鹿半島は種子島と並んで、国内最後の単材刳舟製作地と聞いていましたから、かつて実際に使っていたものを奉納したのでしょうか。神社のあるこの真山は、山頂付近に船材となる杉を産出した、いわばゆかりの地でもあり、ここに収蔵されたのも不自然ではないと、一人納得。ちなみに地元では、エグリブネまたは、艫(とも、船尾)を箱型に造ったことから、トモプトと呼ばれていたそうです。

●周りをうろうろと歩き回りながら、のぞき込み、撫で回しと興奮のあまりとはいえやりたい放題(申しわけございません)。中でも目を奪われたのが、この、ハイオ(艪をつなぐ細縄)のいわばアイ。
何ていうんでしょう、彫塑感とでもいうのでしょうか。粘土をこねて作ったような、ぬめっとした曲線で舷側の壁面から出っ張っているこのパーツ‥‥これが後付けでなく、一材から削り出されたことが信じられないような見事な造形。これは専門書の図版や写真で読み取れない部分で、百聞は一見に如かずだなあと、しみじみしたのでした。

撫で回しながらハフハフしていたら、御神札所におられた女性のご神職が、にこやかに説明して下さいました。
●いわく、およそ3t(4tだったかな? ごめんなさい)の重さがある原木から削り出し、舟の重さは約1tであること、この舟は実際に使われていたものはないが、技術伝承・保存のため専門の船大工が造ったものであること‥‥など、など。実によくご存じで、神社にとっても重要な奉納品であることが実感されたものでした。

落とし釘を打ったと思しき、天端の3ヶ所ある埋め木にも、素材に働きかけ、力の伝達を考えた匠の技を思わせて、まことに佳きディテールです。丸木舟はこうしたまめな修繕で、百年近い寿命を保ったそうですから、むべなるかなとうなずきつつ撫で回したものでした。
●ここですかさず、ご神職からコメントが。この埋め木は実際の破損部でなく、補修の技法を保存・伝承するため、"わざと"施されたとのだそう! イヤ、携わられた方々の熱意もさることながら、微に入り細をうがった部分まで伝承への執念が行き届いていること、頭が下がる思いがしたものでした。

●艫(とも)周りを低い目線で。左舷側にログイ(艪の支点)があるのは、私の艇と同様。天端近くに張り出しが削り出され、艫の平面から船底に至るあたりは、これもきれいな曲面を描いています。大木の年輪が、そのまま造形の表面に浮き出たさま、板組みの和船では見られないディテールを堪能。
しかし、上部から年輪の中心に向けて、ひび割れが育ちつつあるのが残念ですね。長期間架台に載せられているので、無理な力がかかったこともあるのでしょうか。ちなみにかつての丸木舟は、新造後2ヶ月ほどの間、乗らないときは船内に水を張り、ひび割れを防いだとのことです。
ご神職のお話にもあったように、通常の板組みの和船よりはるかに手間がかかり、かつ材を消費するある意味贅沢な舟ではあるのですが、男鹿沿岸の風土には不可欠なタイプとして、長きに渡り重用されてきたものだったのでしょう。
次回、そのあたりをまとめられればと思います。

(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…3』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】
真山神社の丸木舟…1
(『八郎潟の閘門を訪ねて…9』のつづき)

●閘門を訪ねた後の25日は、男鹿半島を一周する形であちこち観光して楽しんだのですが、翌26日は男鹿半島のヘソともいうべき山中におわす、真山(しんざん)神社にお参りすることにしました。どこか地元を代表するような神社にご挨拶できれば‥‥と、特に下調べもせず参拝したのですが、これが素晴らしい出会いをもたらしてくれたのです。
写真は拝殿へ上がる石段の入口にあった仁王門。竣工は江戸時代中ごろ、別当寺であった旧光飯(こうぼう)寺の山門が神門となったものだそうで、柱の枯れた肌が醸す、荘厳な雰囲気に打たれたものでした。
●山門の手前には、荒い石組で素朴に護岸した側溝があり、澄んだ水をたたえていたのですが、その苔むした法面にカエルさんを見つけてしまい、引っかかってしまったのが何とも。
その上水の中には、黒いオタマジャクシがたくさん、くるくると元気に泳ぎ回っていて、可愛らしさに思わず頬がゆるんだものでした。猛暑の中でも、豊かな山の湧水と濃い緑に恵まれた境内は、彼らにとって住み心地のよい場所のようです。

●石段を登り切って、まずは拝殿にお参り。山の斜面を削平したと思しき平地に、鬱蒼とした森を背負って、思ったよりこじんまりとしながら、風格のある社殿が鎮座していました。昭和34年に新築したものだそう。
社伝によれば、景行天皇の御世に武内宿禰が創建したそうですから、4世紀ごろでしょうか。今回初めて知りましたが、「なまはげ発祥の地」として有名なお社なのだそうです。
●さっぱりと掃き清められた拝殿前から、杉木立越しに左手、神楽殿を望んで。神楽殿には、お神輿が二基保管されていました。
陽射しに輝いて、清々しい感じのする芝生の広場は、正月3日に柴灯祭(せどまつり)、2月の第二金・土・日曜日には「なまはげ柴灯祭」が催されるスペース。お祭り当日は参道が大渋滞するほどの、大変な賑わいなのだとか。

●さて、ここからが水路者‥‥というか、和船好きにとっての本題です。往路は一気に石段を登って拝殿を目指したので、うかつなことながらまったく気づかなかったのですが、御神札所を兼ねた社務所のある踊り場まで降りたところ、その対面に写真の、注連縄をめぐらせた小屋掛けがあり、何かが祀られているのに目を奪われました。
丸木舟だ!
ここ男鹿半島は、戦後に至るまで丸木舟が漁舟として現役だった、全国にもまれな地域であったことを思い出し、テンション急上昇。大興奮で駆け寄ったのであります!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…2』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】

●閘門を訪ねた後の25日は、男鹿半島を一周する形であちこち観光して楽しんだのですが、翌26日は男鹿半島のヘソともいうべき山中におわす、真山(しんざん)神社にお参りすることにしました。どこか地元を代表するような神社にご挨拶できれば‥‥と、特に下調べもせず参拝したのですが、これが素晴らしい出会いをもたらしてくれたのです。
写真は拝殿へ上がる石段の入口にあった仁王門。竣工は江戸時代中ごろ、別当寺であった旧光飯(こうぼう)寺の山門が神門となったものだそうで、柱の枯れた肌が醸す、荘厳な雰囲気に打たれたものでした。

その上水の中には、黒いオタマジャクシがたくさん、くるくると元気に泳ぎ回っていて、可愛らしさに思わず頬がゆるんだものでした。猛暑の中でも、豊かな山の湧水と濃い緑に恵まれた境内は、彼らにとって住み心地のよい場所のようです。

●石段を登り切って、まずは拝殿にお参り。山の斜面を削平したと思しき平地に、鬱蒼とした森を背負って、思ったよりこじんまりとしながら、風格のある社殿が鎮座していました。昭和34年に新築したものだそう。
社伝によれば、景行天皇の御世に武内宿禰が創建したそうですから、4世紀ごろでしょうか。今回初めて知りましたが、「なまはげ発祥の地」として有名なお社なのだそうです。

陽射しに輝いて、清々しい感じのする芝生の広場は、正月3日に柴灯祭(せどまつり)、2月の第二金・土・日曜日には「なまはげ柴灯祭」が催されるスペース。お祭り当日は参道が大渋滞するほどの、大変な賑わいなのだとか。

●さて、ここからが水路者‥‥というか、和船好きにとっての本題です。往路は一気に石段を登って拝殿を目指したので、うかつなことながらまったく気づかなかったのですが、御神札所を兼ねた社務所のある踊り場まで降りたところ、その対面に写真の、注連縄をめぐらせた小屋掛けがあり、何かが祀られているのに目を奪われました。
丸木舟だ!
ここ男鹿半島は、戦後に至るまで丸木舟が漁舟として現役だった、全国にもまれな地域であったことを思い出し、テンション急上昇。大興奮で駆け寄ったのであります!
【撮影地点のMapion地図】
(令和5年7月26日撮影)
(『真山神社の丸木舟…2』につづく)

にほんブログ村
【▲クリックお願いします】
| HOME |